2015年12月21日月曜日

英語について思うこと:さいごに


英語について、日常会話が難しいというところから、コミュニケーションの根本的なところで日本語と違うところがあるのではと思い至り、そしてそこから笑いの方向性や表現の直接的でないあり方、その他にも反対なことについて考えてみました。

その結果思うことは、ひとまず英語と日本語との間には、単語と文法を置き換えるだけでは対応できない、もしくは簡単には置き換えられないような大きな違いあるなということでした。

もちろん、結局のところはコミュニケーションなので、大なり小なり共通するところ(日本語でも、気を遣う場合には実際直接的な表現を避けていますね、等)はありますが、ただそれぞれの言語が重きを置く部分に違いがあることを認識するのは、他方の言語を理解する助けになるのではと思いました。

英語に関していえば、学習するにつれ「英語がまだ足りない」と認識することもさることながら、しみじみと実感するのは「日本語の影響力」の強さです。これは思えばアメリカに来てすぐの頃に受講したESL(English as a Second Language)の先生もおっしゃていたことなのですが、日本人にとっての英語学習の一番の難しさは、日本語と英語が違う部分に対して、「アレ?」と一旦躓いた上でそれらを一つずつ乗り越えていかなければならないことにあるのではと思います。

このことがあるので、その言語を高い段階で習得するには、やはりその言語が母語として話されるコミュニティーに入って、その実際の使われ方を見ることが重要なのではと思います。とはいえ、実際中に入ってしまうと余裕がなくなってその場を切り抜けるだけで手一杯、ということも往々にしてあると思うので、今更ながらテレビドラマを見るのは大事だなと思います。これならば、安全な環境にいながらにして冷静に自然な会話を観察できます。そういうわけで、最近は"Friends"などのドラマを見返したりしています。

今回は、コミュニケーションの根本的な考え方に特に着目してみたのですが、その他にも近頃「発音」や「自意識」についても、日本語と英語で違うなあと面白く思ったことがあったので、また機会があればぜひそれらについても書いてみたいと思います。

以上「英語について思うこと」でした。お付き合いありがとうございました。

2015年12月19日土曜日

英語について思うこと:日本語と反対なこと


これまで、「笑いの方向性」や「直接的でないこと」における英語と日本語の違いを見て来たのですが、今回はその他で日本語と英語のコミュニケーションで方向性が違うなと感じたことを二点ほどあげてみたいと思います。

①同意のYes 対 内容に対するYes
英語で一瞬答えに詰まってしまうことの一つに否定疑問文("Isn't he busy now?"「彼は、今忙しくないのですか。」等)があります。私の日本語的な感覚では、話し手が「〜なのではないか」と考えていることに対して、同意の意味で"Yes"と言ってしまいたくなるのですが、英語的には内容に対してYes, Noと答えなければいけないので、こう聞かれるとあたふたしてしまいます。ただ、聞き方のバリエーションとして、もし"He is not busy, right?"(否定文+right?)と聞かれた場合には、同意の意味で"Right."と返事するのはありなのだそうなので、最近はそういう聞かれ方でない場合にもまず"Right."で返事してから考えたりしています。

②「気づかなくてごめんね」対「なんで言わなかったの」
日本語の場合は「察する」ことが大人であり、英語では「主張すること・受け取ること」が大人とされているように思います。ちなみにその一つの表れとして、英語の"take personally"「個人に対する言動と受け取る」という表現はそれをよく表しているなと思うのですが、これは例えば仕事上のやり取りで意見が合わなかった場合等に、それを個人的に取るか否かという時に使われる表現で、"Don't take it personally."などというフレーズはよく聞きます。すなわち、英語ではpersonalに取ることが大人気なく、対して日本語では人にpersonalに取らせることが配慮に欠けている、とされているように感じます。これは、もしその違いを知らずに他方のコミュニティーで生活すると、非常にフラストレーションが溜まるところではないかと思います。

個人的な印象としては、これらのことは頭では理解していても、やはり自分の母国語とともに馴染んだ感覚の方が強いので、頭の中でのその部分のルールの切り替えがスムーズに行くには、かなり経験が必要なのかなあという風に感じます。

次回は、これらのコミュニケーションの根本的な考えが違うということについてのまとめをして、今回の「英語について思うこと」の最終回とさせて頂きたいと思います。

2015年12月12日土曜日

英語について思うこと:表現が直接的でない②


英語ネイティブの友人数人に、英語でのコミュニケーションにおいて遠回しな言い方をする、あるいは「直接的」である、ということについてどういう認識を持っているのか聞いてみたところ、

①コミュニケーションにおいて「直接的」であるかどうかは常に意識していて、状況によって使い分けている。
②一般的に、あまり親しくない間柄で「直接的」にアプローチするのは失礼とされている。
③英語には、日本語における敬語のような、尊敬を表す体系的なシステムはなく、それらを表すには単語の選び方自体を変えている。
④自分の意思を表明するにあたっては、遠回しな表現はしない。
⑤物事について、そのままを言うのでは面白くないと思っている。

①については、仕事などでいったん本題に入るとやはり直接的になるものの、そこへの入り方や切り替えを特に意識しているそうです。たとえば、友人が仕事の面接に行った際、会社に対して質問したことを例にとって説明してくれました。彼は面接担当者に「あなたは会議でジョークを言うとしたら、冒頭か、中盤か、終盤、どのタイミングで言いますか。」と聞いたそうです。それによって、その会社ではどれぐらい直接的に仕事にアプローチする傾向があるのか、その雰囲気がわかるそうです。これを聞いて、とてもアメリカ的な印象を受けました。。

②は、ある程度言語に関わらずコミュニケーション一般に共通するところかなとは思いますが、親しい間柄であればあるほど、その表現は直接的になるそうです。

③は、そういうわけなので、単語自体に「親しい間柄で使うカジュアルな言葉」「初対面の人や目上の人に使う丁寧めの言葉」などのがニュアンスが含まれているため、意味としてはほぼ同じでも、状況にそぐわない単語を使うと「え?」と思われるそうです。これは日本語でもある程度想像できる感じがしますが、私などは英語ではイマイチまだぴんと来ないので、気づかずによく失敗していると思います…。

④は、端的にはYes, Noをはっきり言うということですが、上記のように人に対して「直接的」にアプローチすることについては慎重なものの、一方自分の意思を表明することには躊躇いがないようで、そのことによって相手にどう思われるか、と考えて遠回しになってしまうことはないようです。

⑤は、「笑いの方向性」とも通じるかと思うのですが、物事についてそれをありのままに言うよりも、少しひねって巧い言い方をする方が面白いし、その方がコミュニケーションが円滑に運ぶこともある、という考えもあるようです。

見渡してみると、結局私が英語を聞いてぴんと来ない理由に関係がありそうなのは③と⑤のみという結果になりましたが…、それにしても「直接的」であるかどうかということが、英語のコミュニケーションでそんなにも意識されている、とは思っていなかったので興味深かったです。

次回は、この他にも日本語と英語のコミュニケーションで方向性が違うなと感じたことについて書きたいと思います。

2015年12月11日金曜日

英語について思うこと:表現が直接的でない①


英語で会話をしていて、ふと相手が何を言いたいのかわからなくなってしまう瞬間があります。単語の一つ一つは認識できている(少なくとも知らない単語が出てきた、という焦りは感じていない)はずなのに、その人の意図するところが意味として頭の中に構築されていかない感じです。

それでもやはり聞き漏らした単語があったのだろうかと思っていたら、SNSなどでの同年代の気軽な書き込みを読んでも、やはり時々意味がピンとこないことがあることに気づきました。

なぜなのか。

少し話が逸れますが、こちらに来てすぐの頃は、買い物に行ってお店の人に尋ねられる事がいちいち聞き取れなくてどぎまぎしたものでした。それは、お店でどういうことを聞かれるのかを知らなかったので、音だけを頼りに状況を理解しなければならなかった為だと思います。経験を経て様子がわかるようになってからは、「こういう状況では、大体こういうことを聞かれる」という知識を持って望むので、たとえ相手が言っていることを全部聞き取れなくても察しがついて、返答できるようになりました。

それと同じことが、会話の中でも起こっているのかなとふと思いました。つまりまだ会話の中で、どういう内容がどういう表現でなされるかの知識が足りないために、展開についていけていないのではないかと。そしてまた、単語自体は見慣れないものではないけれど、フレーズとして使われると別の意味を持つものや、また一つの内容に対して微妙に違うニュアンスを表す表現が数あることにも気がついてきました・・・。

ちなみにニュアンスについては、日本語も様々に微細な違いを表せる言語だと思っていたのですが、しかし何か少し印象が違います。

以前、英語について思う事(〜記号的〜)という記事で、日本語には表現のバリエーションがありすぎて個人的になりがちなので、特に何か指示をするような時には、記号的な性格を持つ英語の方が使いやすいのでは、と書いたことがありました。しかし今回このことを考えていて、日本語はそのように言い方にバリエーションがあるものの、もしかしてその表現の方向性自体は実はシンプルで直接的なのではないかと思いました。対して英語の方は、表現の仕方にバリエーションがあり、コミュニケーションの方向性は意外に遠回しなのではないかと。

例えば、"I like cats."(ネコが好き。)という内容で、そのバリエーションの傾向を比較すると、

日本語は、
「わたしはネコが好きです。」
「ぼくネコ好きなんだよなあ。」
「うちネコ好きやねん。」
と言い回しが変わるイメージで、

一方英語の方は
"I‘ve always been mad about cats."(もうずっとネコに夢中なんです。)
"I'm definitely a cat person."(絶対にネコ派です。)
"Life without my cats? I don't think so. "(ネコなしの生活なんて考えられない。)
と表現のアプローチ自体が変わるイメージです。少々極端な例かとは思いますが。。。

しかし、もしそうだとすると、英語のコミュニケーションにおいて、たとえば相手がネコ好きなら、きっと"I like cats."と言うはずだ、と思って待ち構えていても、それだけではその内容をキャッチできない可能性が高いことになります。

考えるほどに、なんだかこれは面白いなと思えてきて(なんとなく日本語の方が間接的で、英語の方が直接的なイメージを持っていたので)、英語ネイティブの友人何人かに、このことについて聞いてみました。次回に続きます。

2015年12月2日水曜日

英語について思うこと:笑いの方向性


笑いの方向性については、日本とアメリカでは、まるで別の競技かと思うほど違うように感じます。

まず、私の感覚での日本の笑いとは、ボケとツッコミを基本とする、「バレーボール」のようなものです。トスが上がって(ボケ)、それをアタックする(ツッコミ)ことで点が決まり(ウケ)ます。全員が全員ボケて突っ込むわけではなく、ある程度ボケが得意な人、ツッコミが得意な人がいて、その人たちが、会話の機微を捉えてボケては、それを突っ込むことで、答え合わせのように皆にその面白さが共有されるイメージです。

一方、アメリカの笑いは、一対一の勝負の、「野球」のようなイメージです。ボケにあたるのはSarcasm(皮肉)だと思うのですが、これに対しては突っ込むことはなく、あえて流すか、乗っかってさらにボケるかだそうです。バッターボックスに立って、投げられるボールを見送るか、打ち返すか、そういったイメージです。

ちなみに、Sarcasmとは、事実とあえて反対のことを言ってその意味を強調する、といった感じで、例えばすごく退屈そうなイベントに参加しなくてはならない時に、そのうんざり感を表現するために「あー楽しみ」と言ったりする感じです。

会話の中では、相手が明らかにその時思っていそうなことと逆の表現を使っていると気づいた場合には、それがSarcasmである可能性が高く、したがってそれに普通に答えてはいけないわけなのです。ボケているわけですから、突っ込まねばと思うのですが、アメリカにはツッコミはないので、ボケを分かったという体で流すか、重ねてうまくボケなければなりません。しかもそれが普通の会話の中にするっとすべりこまされるので、非常に難しいです。

先日のCabaret showの遠征中には、Sarcasm好きのActorたちとの会話の中で私はなかなか大混乱で、ボケられているのに普通に答えてしまったり、ボケられていないのにボケ返してしまったり、なかなか散々でした。。イメージとしては、キャッチボール(普通の会話)をしていたと思ったら、ふっと急に難しい球を投げられて、「なんでこんな受けにくいボールを・・・。あ、これはボケか!」と思ったら急いでバットに持ち替えて打ち返さなければいけない、という感じです。

英語圏で6年も暮らして、だんだん「キャッチボールはできるようになってきたぞ」と思っていたところ、日常会話の中ではそうやってストライクやファールを連発してしまうという状況に若干凹みましたが、よくよくActorたちと話してみると、アメリカでも子供がSarcasmを理解しはじめるようになるのは8歳〜12歳頃なのだそうです。そうか、まだ2歳足りなかったのか、と妙にホッとしました。(注:実際には年齢に関わらずSarcasmの得意不得意には個人差があるそうです)

まとめますと、笑いの方向性の大きな違いとしては、日本の場合は「ボケによって生じたズレを、ツッコミによって元に戻す時に笑いが生じる」のに対して、アメリカの場合は「ボケによって生じたズレを、さらにボケて大きくズラすことに面白みを感じる」という違いがあるように思います。あるいは、ボケることによって突っ込んでいるとも言えるかもしれませんが、いずれにせよ「なんでやねん!」と直接的に突っ込む感じはアメリカ的ではないようです。

次回は、その直接的でない表現の傾向について、さらに詳しく書いてみたいと思います。