2015年12月21日月曜日
英語について思うこと:さいごに
英語について、日常会話が難しいというところから、コミュニケーションの根本的なところで日本語と違うところがあるのではと思い至り、そしてそこから笑いの方向性や表現の直接的でないあり方、その他にも反対なことについて考えてみました。
その結果思うことは、ひとまず英語と日本語との間には、単語と文法を置き換えるだけでは対応できない、もしくは簡単には置き換えられないような大きな違いあるなということでした。
もちろん、結局のところはコミュニケーションなので、大なり小なり共通するところ(日本語でも、気を遣う場合には実際直接的な表現を避けていますね、等)はありますが、ただそれぞれの言語が重きを置く部分に違いがあることを認識するのは、他方の言語を理解する助けになるのではと思いました。
英語に関していえば、学習するにつれ「英語がまだ足りない」と認識することもさることながら、しみじみと実感するのは「日本語の影響力」の強さです。これは思えばアメリカに来てすぐの頃に受講したESL(English as a Second Language)の先生もおっしゃていたことなのですが、日本人にとっての英語学習の一番の難しさは、日本語と英語が違う部分に対して、「アレ?」と一旦躓いた上でそれらを一つずつ乗り越えていかなければならないことにあるのではと思います。
このことがあるので、その言語を高い段階で習得するには、やはりその言語が母語として話されるコミュニティーに入って、その実際の使われ方を見ることが重要なのではと思います。とはいえ、実際中に入ってしまうと余裕がなくなってその場を切り抜けるだけで手一杯、ということも往々にしてあると思うので、今更ながらテレビドラマを見るのは大事だなと思います。これならば、安全な環境にいながらにして冷静に自然な会話を観察できます。そういうわけで、最近は"Friends"などのドラマを見返したりしています。
今回は、コミュニケーションの根本的な考え方に特に着目してみたのですが、その他にも近頃「発音」や「自意識」についても、日本語と英語で違うなあと面白く思ったことがあったので、また機会があればぜひそれらについても書いてみたいと思います。
以上「英語について思うこと」でした。お付き合いありがとうございました。
2015年12月19日土曜日
英語について思うこと:日本語と反対なこと
これまで、「笑いの方向性」や「直接的でないこと」における英語と日本語の違いを見て来たのですが、今回はその他で日本語と英語のコミュニケーションで方向性が違うなと感じたことを二点ほどあげてみたいと思います。
①同意のYes 対 内容に対するYes
英語で一瞬答えに詰まってしまうことの一つに否定疑問文("Isn't he busy now?"「彼は、今忙しくないのですか。」等)があります。私の日本語的な感覚では、話し手が「〜なのではないか」と考えていることに対して、同意の意味で"Yes"と言ってしまいたくなるのですが、英語的には内容に対してYes, Noと答えなければいけないので、こう聞かれるとあたふたしてしまいます。ただ、聞き方のバリエーションとして、もし"He is not busy, right?"(否定文+right?)と聞かれた場合には、同意の意味で"Right."と返事するのはありなのだそうなので、最近はそういう聞かれ方でない場合にもまず"Right."で返事してから考えたりしています。
②「気づかなくてごめんね」対「なんで言わなかったの」
日本語の場合は「察する」ことが大人であり、英語では「主張すること・受け取ること」が大人とされているように思います。ちなみにその一つの表れとして、英語の"take personally"「個人に対する言動と受け取る」という表現はそれをよく表しているなと思うのですが、これは例えば仕事上のやり取りで意見が合わなかった場合等に、それを個人的に取るか否かという時に使われる表現で、"Don't take it personally."などというフレーズはよく聞きます。すなわち、英語ではpersonalに取ることが大人気なく、対して日本語では人にpersonalに取らせることが配慮に欠けている、とされているように感じます。これは、もしその違いを知らずに他方のコミュニティーで生活すると、非常にフラストレーションが溜まるところではないかと思います。
個人的な印象としては、これらのことは頭では理解していても、やはり自分の母国語とともに馴染んだ感覚の方が強いので、頭の中でのその部分のルールの切り替えがスムーズに行くには、かなり経験が必要なのかなあという風に感じます。
次回は、これらのコミュニケーションの根本的な考えが違うということについてのまとめをして、今回の「英語について思うこと」の最終回とさせて頂きたいと思います。
2015年12月12日土曜日
英語について思うこと:表現が直接的でない②
英語ネイティブの友人数人に、英語でのコミュニケーションにおいて遠回しな言い方をする、あるいは「直接的」である、ということについてどういう認識を持っているのか聞いてみたところ、
①コミュニケーションにおいて「直接的」であるかどうかは常に意識していて、状況によって使い分けている。
②一般的に、あまり親しくない間柄で「直接的」にアプローチするのは失礼とされている。
③英語には、日本語における敬語のような、尊敬を表す体系的なシステムはなく、それらを表すには単語の選び方自体を変えている。
④自分の意思を表明するにあたっては、遠回しな表現はしない。
⑤物事について、そのままを言うのでは面白くないと思っている。
①については、仕事などでいったん本題に入るとやはり直接的になるものの、そこへの入り方や切り替えを特に意識しているそうです。たとえば、友人が仕事の面接に行った際、会社に対して質問したことを例にとって説明してくれました。彼は面接担当者に「あなたは会議でジョークを言うとしたら、冒頭か、中盤か、終盤、どのタイミングで言いますか。」と聞いたそうです。それによって、その会社ではどれぐらい直接的に仕事にアプローチする傾向があるのか、その雰囲気がわかるそうです。これを聞いて、とてもアメリカ的な印象を受けました。。
②は、ある程度言語に関わらずコミュニケーション一般に共通するところかなとは思いますが、親しい間柄であればあるほど、その表現は直接的になるそうです。
③は、そういうわけなので、単語自体に「親しい間柄で使うカジュアルな言葉」「初対面の人や目上の人に使う丁寧めの言葉」などのがニュアンスが含まれているため、意味としてはほぼ同じでも、状況にそぐわない単語を使うと「え?」と思われるそうです。これは日本語でもある程度想像できる感じがしますが、私などは英語ではイマイチまだぴんと来ないので、気づかずによく失敗していると思います…。
④は、端的にはYes, Noをはっきり言うということですが、上記のように人に対して「直接的」にアプローチすることについては慎重なものの、一方自分の意思を表明することには躊躇いがないようで、そのことによって相手にどう思われるか、と考えて遠回しになってしまうことはないようです。
⑤は、「笑いの方向性」とも通じるかと思うのですが、物事についてそれをありのままに言うよりも、少しひねって巧い言い方をする方が面白いし、その方がコミュニケーションが円滑に運ぶこともある、という考えもあるようです。
見渡してみると、結局私が英語を聞いてぴんと来ない理由に関係がありそうなのは③と⑤のみという結果になりましたが…、それにしても「直接的」であるかどうかということが、英語のコミュニケーションでそんなにも意識されている、とは思っていなかったので興味深かったです。
次回は、この他にも日本語と英語のコミュニケーションで方向性が違うなと感じたことについて書きたいと思います。
2015年12月11日金曜日
英語について思うこと:表現が直接的でない①
英語で会話をしていて、ふと相手が何を言いたいのかわからなくなってしまう瞬間があります。単語の一つ一つは認識できている(少なくとも知らない単語が出てきた、という焦りは感じていない)はずなのに、その人の意図するところが意味として頭の中に構築されていかない感じです。
それでもやはり聞き漏らした単語があったのだろうかと思っていたら、SNSなどでの同年代の気軽な書き込みを読んでも、やはり時々意味がピンとこないことがあることに気づきました。
なぜなのか。
少し話が逸れますが、こちらに来てすぐの頃は、買い物に行ってお店の人に尋ねられる事がいちいち聞き取れなくてどぎまぎしたものでした。それは、お店でどういうことを聞かれるのかを知らなかったので、音だけを頼りに状況を理解しなければならなかった為だと思います。経験を経て様子がわかるようになってからは、「こういう状況では、大体こういうことを聞かれる」という知識を持って望むので、たとえ相手が言っていることを全部聞き取れなくても察しがついて、返答できるようになりました。
それと同じことが、会話の中でも起こっているのかなとふと思いました。つまりまだ会話の中で、どういう内容がどういう表現でなされるかの知識が足りないために、展開についていけていないのではないかと。そしてまた、単語自体は見慣れないものではないけれど、フレーズとして使われると別の意味を持つものや、また一つの内容に対して微妙に違うニュアンスを表す表現が数あることにも気がついてきました・・・。
ちなみにニュアンスについては、日本語も様々に微細な違いを表せる言語だと思っていたのですが、しかし何か少し印象が違います。
以前、英語について思う事(〜記号的〜)という記事で、日本語には表現のバリエーションがありすぎて個人的になりがちなので、特に何か指示をするような時には、記号的な性格を持つ英語の方が使いやすいのでは、と書いたことがありました。しかし今回このことを考えていて、日本語はそのように言い方にバリエーションがあるものの、もしかしてその表現の方向性自体は実はシンプルで直接的なのではないかと思いました。対して英語の方は、表現の仕方にバリエーションがあり、コミュニケーションの方向性は意外に遠回しなのではないかと。
例えば、"I like cats."(ネコが好き。)という内容で、そのバリエーションの傾向を比較すると、
日本語は、
「わたしはネコが好きです。」
「ぼくネコ好きなんだよなあ。」
「うちネコ好きやねん。」
と言い回しが変わるイメージで、
一方英語の方は
"I‘ve always been mad about cats."(もうずっとネコに夢中なんです。)
"I'm definitely a cat person."(絶対にネコ派です。)
"Life without my cats? I don't think so. "(ネコなしの生活なんて考えられない。)
と表現のアプローチ自体が変わるイメージです。少々極端な例かとは思いますが。。。
しかし、もしそうだとすると、英語のコミュニケーションにおいて、たとえば相手がネコ好きなら、きっと"I like cats."と言うはずだ、と思って待ち構えていても、それだけではその内容をキャッチできない可能性が高いことになります。
考えるほどに、なんだかこれは面白いなと思えてきて(なんとなく日本語の方が間接的で、英語の方が直接的なイメージを持っていたので)、英語ネイティブの友人何人かに、このことについて聞いてみました。次回に続きます。
2015年12月2日水曜日
英語について思うこと:笑いの方向性
笑いの方向性については、日本とアメリカでは、まるで別の競技かと思うほど違うように感じます。
まず、私の感覚での日本の笑いとは、ボケとツッコミを基本とする、「バレーボール」のようなものです。トスが上がって(ボケ)、それをアタックする(ツッコミ)ことで点が決まり(ウケ)ます。全員が全員ボケて突っ込むわけではなく、ある程度ボケが得意な人、ツッコミが得意な人がいて、その人たちが、会話の機微を捉えてボケては、それを突っ込むことで、答え合わせのように皆にその面白さが共有されるイメージです。
一方、アメリカの笑いは、一対一の勝負の、「野球」のようなイメージです。ボケにあたるのはSarcasm(皮肉)だと思うのですが、これに対しては突っ込むことはなく、あえて流すか、乗っかってさらにボケるかだそうです。バッターボックスに立って、投げられるボールを見送るか、打ち返すか、そういったイメージです。
ちなみに、Sarcasmとは、事実とあえて反対のことを言ってその意味を強調する、といった感じで、例えばすごく退屈そうなイベントに参加しなくてはならない時に、そのうんざり感を表現するために「あー楽しみ」と言ったりする感じです。
会話の中では、相手が明らかにその時思っていそうなことと逆の表現を使っていると気づいた場合には、それがSarcasmである可能性が高く、したがってそれに普通に答えてはいけないわけなのです。ボケているわけですから、突っ込まねばと思うのですが、アメリカにはツッコミはないので、ボケを分かったという体で流すか、重ねてうまくボケなければなりません。しかもそれが普通の会話の中にするっとすべりこまされるので、非常に難しいです。
先日のCabaret showの遠征中には、Sarcasm好きのActorたちとの会話の中で私はなかなか大混乱で、ボケられているのに普通に答えてしまったり、ボケられていないのにボケ返してしまったり、なかなか散々でした。。イメージとしては、キャッチボール(普通の会話)をしていたと思ったら、ふっと急に難しい球を投げられて、「なんでこんな受けにくいボールを・・・。あ、これはボケか!」と思ったら急いでバットに持ち替えて打ち返さなければいけない、という感じです。
英語圏で6年も暮らして、だんだん「キャッチボールはできるようになってきたぞ」と思っていたところ、日常会話の中ではそうやってストライクやファールを連発してしまうという状況に若干凹みましたが、よくよくActorたちと話してみると、アメリカでも子供がSarcasmを理解しはじめるようになるのは8歳〜12歳頃なのだそうです。そうか、まだ2歳足りなかったのか、と妙にホッとしました。(注:実際には年齢に関わらずSarcasmの得意不得意には個人差があるそうです)
まとめますと、笑いの方向性の大きな違いとしては、日本の場合は「ボケによって生じたズレを、ツッコミによって元に戻す時に笑いが生じる」のに対して、アメリカの場合は「ボケによって生じたズレを、さらにボケて大きくズラすことに面白みを感じる」という違いがあるように思います。あるいは、ボケることによって突っ込んでいるとも言えるかもしれませんが、いずれにせよ「なんでやねん!」と直接的に突っ込む感じはアメリカ的ではないようです。
次回は、その直接的でない表現の傾向について、さらに詳しく書いてみたいと思います。
2015年11月29日日曜日
英語について思うこと:日常会話が難しい
以前に予告させて頂いてから少し時間が経ってしまいましたが、今日から何回かに分けて、近頃英語に関して感じていることを書きたいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。
今一番興味があるのは、「日常会話が難しい」ということです。以前から漠然とそのようには感じていたのですが、先月10日間のCabaret showの遠征に行った際に、アメリカ人のアクターやスタッフと身近に過ごした日々の中で更に強く実感しました。
「日常会話」というのは、英会話においては初級の能力として扱われているイメージがあります。確かに、買い物の際にお店の人とやりとりができる、道を尋ねられる、という感じの日常会話であれば、目的もはっきりしているので、基本的な単語やフレーズを覚えることで対応できると思います。しかし、特にこれといった目的を持たない自由な「おしゃべり」もまた「日常会話」だとすると、これはまた別の話だと思います。
ちなみに「日本語圏と英語圏では言語文化が違うために日本人はアーギュメント能力が乏しい」、ということは言われていて(植田一三・妻鳥千鶴子(2004)『英語で意見を論理的に述べる技術とトレーニング』ベレ出版)、TOEFLの採点基準もそのアーギュメント能力に重きが置かれていたりして、この点は広く認識されていると思います。これに関しては参考書なども多く出ている上に、勉強することで向上しやすい能力だと思います。
ところが、実際に英語圏で生活する中で一番実感することは、やはりむしろ「おしゃべり」の難しさではないかと思うのです。この点について、果たして一般的にはどういう認識なのかさっとGoogleで検索してみたところ、
「学校で習わなかったことが沢山ある」「知らないと絶対に詰まるフレーズがある」という点や、アメリカ英語でよく使われるくだけた発音によるものだという指摘が見つかりました。
いずれも非常に興味深く納得したのですが、それでも自身の経験と実感として、それだけでは説明しきれていない部分、すなわち「コミュニケーションの根本的な考え方が違う」ということがあると感じました。(結局のところ上記の言語文化の違いということになろうかと思いますが。。。)
次回からはその具体的な内容について書いていきたいと思います。
次回はまず「笑いの方向性」について。
2015年11月24日火曜日
『若き音楽家たちの挑戦~ドキュメント第84回日本音楽コンクール』
前々回のポストでご紹介させて頂いた伊藤 優美さんが、先月本選会の行われた第84回日本音楽コンクールのクラリネット部門で入選されました。
そして、来月始めに本選出場者を追ったドキュメンタリーが放送されるのですが、その中で彼女の紹介の一部として"A Walk in the Park"のYoutubeビデオの一部を使って頂けることになりました。
彼女にはいつも大変良くして頂いていて、今回も「良い宣伝になるのでは」と敢えてビデオ使用の可能性を申し出て下さって、本当に感謝しています。
伊藤 優美さんの、そしてコンクール出場者の皆さんの軌跡を追ったドキュメンタリー、きっと素晴らしい番組になっていると思いますので、よろしければぜひご覧ください!
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『若き音楽家たちの挑戦~ドキュメント第84回日本音楽コンクール』
12/5(土)16:00より NHK Eテレにて放送。
また、Eテレでの放送に先立ち、
12/4(金)8:15からNHK総合テレビで放送される『あさイチ』のなかでも、日本音楽コンクールが紹介されるそうです。
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2015年11月16日月曜日
ポケットに5セント
少し音楽とは関係がないのですが、最近思っていることを少し書かせていただきます。
先日、いつも利用する地下鉄の駅の降り口から入った構内の片隅に、花束が置かれていました。そして壁には「ここに座っていたホームレスの女性が亡くなりました。」とその日の日付の入った張り紙がしてありました。駅構内にあるお店の人が、それらを手向けてくれた様子でした。
その日の目的地に向かいながら、いろいろなことを考えました。その人は、確かによくその場所に座っていたのです。でもお金をあげたことはありませんでした。元気そうな姿を見たこともあった気はしましたが、最近は俯いている姿を微かに覚えているのみです。
NYに来てから、街でも地下鉄でもホームレスの人をよく見かけ、そして小銭やお金を請われる場面に出会ってきました。その度にどうするべきなのか戸惑いながら、「恵むなんておこがましいのでは」「人助けするほど稼げてもいないのに」などの理由をつけて、ほとんどお金をあげたことはありませんでした。
たとえ彼女に少しの小銭をあげられていたとしても、実際のところ一食分のお金にもならなかったとは思います。ただ、そもそもそういうことではなかったのかなと思いました。もしも「誰にも省みられることがない」と感じたまま亡くなったのだったのだとしたら、悪いことをした、と心が痛みました。
社会の経済的格差が広がっている中、お金をたくさん持っている人に対して私自身「どうにかそれを社会に還元してくれないか」と感じる時があります。しかし、そう思うのであればこそ、自分も自分よりしんどい人をサポートをする気持ちを持たないと、フェアではないのではとも思いました。
そのように気持ちが決まったので、目的地につくと財布を開けて5セント硬貨を集めてポケットに入れました。これから街でホームレスの人に出会ったら、一人につき1枚ずつこの5セントを寄付していこう。と決めました。
そう思って生活してみると、前よりもホームレスの人の姿に目が止まるようになりました。実際は、人混みの中でタイミングが合わなかったり、少し危険を感じた場合などには通りすぎたりして、無理のない範囲での寄付活動ですが、俯いている人の差し出している紙カップに5セントを入れると、硬貨のぶつかるチャリーンという音に顔を上げて、少し意外そうな顔をしながら「ありがとう」と言ってくれることが多いです。
根本的な解決にはならないのはわかっていますし、きれいごとの自己満足ではあるのですが(しかもたったの5セント…)、同じ街に住むものとして「苦しいから助けてください」と公に表明している人に対して、できる範囲でサポートを示すことは、そんなに悪い事でもないのではないか、などと思いしばらくはこの活動を続けてみようと思っています。
たくさんの命が簡単に奪われてしまう、たくさんの命の関わる事柄が簡単に決められてしまう、そのような絶望的な出来事の多い昨今ですが、一つの命を全うすることは本来かくも大変で、それでいて丁寧に生かされた命は可能性に溢れている、ということを改めて思うこの頃です。
2015年11月13日金曜日
ビデオ:A Walk in the Park
CDレコーディングの際に撮影されたビデオの第4弾として、クラリネットとピアノの為の"A Walk in the Park"のビデオをご紹介させていただきます。
この曲は、今回もクラリネットを演奏してくださっている伊藤優美さんが、お互いにマネス大在学中だった頃に委嘱してくださって書いた小曲で、ありがたいことにその後も機会がある度に演奏してくださっています。
タイトルにあるParkとは具体的にセントラルパークのことで、短い曲ながら、なんとなく下記のようなストーリーをイメージして書きました。
〜小さな男の子がお天気のいい春の日に、お父さんお母さんに連れられて初めてセントラルパークにやってきました。見るもの全てが面白くて恐くて、お父さんお母さんの手を引いて、ずんずん地面を踏みしめて歩いて行きます。道中、散歩中の犬に吠えられてびっくりしたり、暗いトンネル下でミュージシャンが演奏するジャズが魅力的で少し恐かったり、それでもため池の噴水に太陽がきらきらするのを見てなんて楽しいんだろうと思ったり。そして「また来ようっと!」と思って公園を出ました。〜
お楽しみ頂ければ幸いです。
2015年11月10日火曜日
「現代音楽」と「現代の音楽」
今日は、作曲の観点から音楽のジャンルについて、少し思うところを書かせてもらいたいと思います。(今回はMusical Theatreについては含んでいません。)
「現代音楽 (Contemporary Music)」という言葉がありますが、Wikipediaによるとその意味は「現代におけるクラシック音楽の延長線上の音楽」だそうで、簡潔ながら的確な定義だと思います。
それと対比して、「現代の音楽(Music of our century)」という言葉もあり、こちらは「21世紀現在では、ポピュラー音楽でも現代音楽でもない音楽を指す言葉として使われる率が多く」なった言葉だと定義されています。
表現上は非常に似ていますが、両方の言葉が必要であったことは大変興味深いです。
私自身の曲に関しては、後者の「現代の音楽」に含まれると考えています。これまでに最も多く接してきた音楽はクラシック音楽ですが、作曲の方向性としては、過去の作曲家たちの偉大な遺産を受け継いでその地平を広げようというよりは、それらを自分というフィルターに通した時に何を好きだと思って自分の中に残っていくのか。それらを集めて自分の世界観で再構成するというような、大変個人的な活動をしているように思います。
ただ、実際のところはliving composer(存命の作曲家)として、便宜上は私も現代音楽のくくりに入れてもらうことが多く、複数の作曲家の合同コンサートに載せてもらった場合などは私の曲は浮いてしまうことが多いです。真摯に書いた曲であれば、どのような曲であれ、発表するにあたって引け目を感じる必要はないはずとも思うのですが、コンサートとしては一曲だけ若干ジャンルが違うような曲が入っていると、お客さんが何を期待して聴いていいのかわからなかったり、「あれはなんだったの?」と思ってしまうことはあると思います。
音楽は聴いてみるまでわからないということと、形がなく比較的抽象的なものであるということから、あまりはっきりとカテゴライズすることが憚られる一方、それゆえに実際はかなり違うものが大きな枠組みの中に入れられている状況はあると思います。
過去に作られた名作をそのまま再現するようなこと、または考え抜いていない作品などであれば、あえて作曲する必要もないと思いますが、しかしもし自分が心底良いと思うような作品が書けたのであれば、それを演奏してもらえる機会を見つけること、そしてそれを楽しんでもらえる人にお届けすることは、作者としての責任のようにも思います。
そのためにも、自分の作品がどういうジャンルにあたるのか、それを理解しておく事は大切なことなのでは、と最近思うようになりました。
現在私が目指しているのは「絵本」のような作品です。美術館に飾られる美術品のような「クラシック音楽」と、暮らしを彩るデザインのような「ポピュラー音楽」の間の、時々手にとって楽しんでもらえるような、「絵本」のような音楽を書いていけたらと思っています。
2015年11月5日木曜日
セントラルパークの紅葉
11月に入りましたが、ここ数日NYでは20℃前後の温かい日が続いています。長い冬が来る前の最後の温かい気候を感じるのと紅葉の見納めに、昨日は少しセントラル・パークに寄りました。
公園を通り抜けながら、同じ紅葉なのに京都の紅葉と何か雰囲気が違うのはなぜだろうと考えました。おそらくは紅葉とともに景色を為す建物の様式が違うということもありますが、京都の紅葉は山もしくは庭にあることが多いのに対して、NYでは大きな公園にあることが多いので、遠くから眺めるより中に佇む感じがあるからかなと思いました。また夜間の紅葉のライトアップというものもこちらではないように思い、こちらの人々の意識の中では紅葉はあえて名所を訪れて観るものではなく、生活圏にある街路樹や公園が紅葉しているのを季節の変化として楽しむ感じなのかなとも思いました。紅葉を素敵だと思うのは同じでも、若干捉え方が違うようなのは面白いです。
CDを手にして頂けた、聴いて頂けたというお知らせを頂き、本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。出版社に声をかけてもらった時にも、夏の録音の際にも、なかなか実感が湧かなかったのですが、反響を頂けて漸く音楽をお届けできたのだと感じて感激しております。もう一つビデオを仕上げてもらったので、また近々ご紹介させて頂ければと思います。
また、今月は最近作曲について考えていることや、英語に対して思った事などについても書いてみたいと思っていますので、お読み頂ければ幸いです。
2015年10月23日金曜日
ビデオ:Cape Roca
CDレコーディングの際に撮影されたビデオの第3弾として、Cape Roca (「ここよりはじまる - 時を越えて」)のビデオが公開されましたので、ご紹介させていただきます。
ビデオ撮影・編集をしてくれたのは、近頃録音・ビデオを本格的にスタートした作曲家の友人James Wu氏なのですが、このビデオから映像の融合に新しい技術を応用してくれたそうで、これまでのString Quartet No.1とPiano Trio No.1とも少し違った編集になっていて、個人的に大変気に入っています。
撮影時には私もその場に立ち会っていたのですが、こうやって演奏家の表情や手元を間近に見られるのは感慨深く、また曲の展開に寄り添った編集をしてくれていて、曲にこめた物語をよく捉えてくれていると感じて感激しました。
この曲はCDのタイトル・ピースでもあり、特に思い入れも深い曲なので、このようなビデオを作ってもらってとても嬉しく思っています。ご覧いただければ幸いです。
2015年10月19日月曜日
グルメ・キャバレー
CDにつきまして、引き続き少しずつ反響を頂いており、本当にありがとうございます。本日私の手元にも実物が届きました。ジャケットはプラスチックケースではなく、紙製の非常にシンプルなデザインですが、印刷が綺麗に仕上がっていて嬉しいです。注文して下さった皆様、お手元に着くまでどうかもう少々お待ちくださいませ。
ところで、昨日までニューヨークのアップステートのNaples(ネイプルズ)という街に10日間ほど滞在していました。というのも、その街にあるブリストル・バレー・シアターという劇場で行われるキャバレー・ショーの音楽監督・伴奏のギグだったのですが、とても美しい街で、思い出深い経験となりました。少し写真とともに御紹介させていただきます。
「グルメ・キャバレー」というタイトルの4人のアクターによるショーだったのですが、『食べ物』に関するポップスやミュージカルのスタンダード曲を、コント等はさみながら物語仕立てで展開していく、むしろレビューのような楽しいショーでした。
築100年以上のシアターは、教会のような、
こじんまりとした良い雰囲気でした。
山に囲まれた街はニューヨーク市内とはまったく違って、
とても開放的で穏やかな雰囲気です。
立ち並ぶお店も、昔からある建物という感じで、
どれもかわいらしいしつらえでした。
最終日には落ち葉と同時になんと雪も散らつく冷え込みでしたが、
ちょうど紅葉の季節でとてもきれいでした。
ショーは、全45曲ほどを切って繋げて90分ほどの上演時間でしたが、事前に楽譜はもらっていたものの、リハーサル自体は全6日間しかなかったので、毎日怒涛のようでしたが、アクター達が皆経験のあるとても素晴らしい人たちだったので、いろいろと助けてもらってなんとか無事5公演をやり遂げることができました。短期間の間に経験した全てのことが印象に残っています。
新しい土地に行き、新しい人々に出会うと、今までにもずっとそういう世界が同時に存在していたのだということが、とても不思議に感じられました。そして、そういう世界を知ることができてよかったとしみじみと思いました。
2015年10月7日水曜日
ビデオ:Piano Trio No.1
CDリリースに関しまして、少しずつ反響を頂いており、大変嬉しく思っております。ありがとうございます。将来的にはiTunesでもお買い求め頂けるようになる予定ですので(最大3ヶ月ぐらいで)、また準備が整いましたらご案内させて下さい。
今日は、レコーディングの際に同時に収録されたPiano Trio No.1のビデオをご紹介させて頂きます。こちらもCDリリースページでご覧頂けるString Quartet No.1と同じく、複数のカメラを使って、かなり凝った映像に仕上げてもらっています。
この曲は、タイトルにはしなかったのですが、「ハーメルンの笛吹き」を題材にしています。最近のThe Light Princessのようにストーリーを時系列に追っているわけではないのですが、ストーリーから受けた印象を様々なセクションを通して描こうと試みました。
楽器の役割分担も、バイオリンが笛吹きの笛の音、ピアノが笛吹きの内心の葛藤、チェロが笛の音に導かれる者達と、大まかに割り振っています。
ビデオでは、最後の方など特に凝った演出がなされていて、初めて見た時はなんとも気恥ずかしかったのですが…。しかし曲として達成したかったことは、よく捉えて映像化してもらえたなあとありがたく思っています。
ご覧頂けましたら幸いです。(お恥ずかしながら、後半の方でレコーディングに立ち会っている私も一瞬映っております。)
2015年10月2日金曜日
CDリリース:Here, Where the Land Ends and the Sea Begins
すっかりご無沙汰してしまっています。皆様お元気でしょうか。NYも最近はすっかり秋らしく、過ごしやすい季節となりました。
ところで、この夏レコーディングしてもらった5曲の室内楽曲が、つい先日自身初のEPとして発売されました!サイトが英語版のみで恐縮なのですが、ぜひお知らせさせてください。
収録曲
String Quartet No.1
Cape Roca
A Walk in the Park
Piano Trio No.1
The Light Princess Suite
CDタイトルの”Here, Where the Land Ends and the Sea Begins(「ここに地終わり海始まる」)”というのは、ユーラシア大陸最西端の岬であるロカ岬(Cape Roca)にある石碑に掘られた、ポルトガルの詩人による叙事詩の一節です。
二曲目のCape Rocaからきているのですが、こちらの曲はもともと2013年に京都で参加させて頂いた『タイトルをつけてみよう』のコンサートで「ここよりはじまる - 時を越えて」というタイトルを頂いた曲なので、英語タイトルにする際に、何か直訳ではなくその意図を伝えられる良い言葉はないかと探して辿り着いたものでした。
ただ、曲のタイトルとしては少し長いので、Cape Rocaをメインのタイトルとし、こちらは副題として持っていたのですが、レコーディングの際にプロデューサーと音楽監督が「あのタイトルいいよね。」と言ってくれて、このCDのタイトルにすることに決まりました。
また、ジャケットの絵は、マネス出身の素晴らしいヴィオリストであり、かつヴィジュアル・アーティストとしても活躍されているChiu-Chen Liuさんにお願いしました。CDタイトルとCape Rocaの録音をお渡しして、「夜の灯台」をテーマにお願いしたところ、わずか数日で描き上げてもらえました。
収録曲には、どれにも少なからず水、光、時空といったテーマを持っていたので、このタイトルとジャケットによって、それぞれが繋がって1つの作品に仕上げてもらえたと感じ、ありがたく嬉しく思っています。
もしもお手に取って頂ければ嬉しく、ぜひサイトだけでもご覧頂ければ幸いです。
2015年8月26日水曜日
6周年
数日経ってから気がついたのですが、先日はアメリカに来て満6年の記念日でした。(ここ数年、後から気づくパターンです。。。もうざっくりと、8月が記念月ということにしてしまおうかと思い始めています。)
毎年この時期には、自分の今までとこれからについてあらためて思いを馳せるのですが、今年は社会の動きに対する思いも相まって、いろいろなことを考えています。政治に対する考えを書くのには躊躇があったのですが、今日は少しだけ書かせてください。
安保法案の動向が気になっています。
子供の頃、図書館で「はだしのゲン」を借りて何度も読み、小学校の修学旅行では広島に、高校では長崎に行きました。戦争は絶対に嫌だと思って育ちました。
そして同時に、「なぜ警察が戦争を止められないのか」ということを、とても不思議に思いました。個人のレベルでは犯罪であることが、国の規模になるとどういう論理でまかり通ってしまうのか。でもそれは、誰もが答えに窮してしまう問いのようで、聞くと大人を困らせてしまうようだと子供ながらに感じました。
そうして大人になって、アメリカに来て色々な国の人と出会いました。どの国の人であれ、人は個人として自分の考えと個性を持っていて、気が合えば友達になれ、信頼できれば仲間になれると感じました。ようやく、そうして個人が個人として生きられる時代になってきたのだとも思っていました。
自分の問題として考えたときに、誰かを傷つけたり、傷つけられたりしたいと思う人などいないと思います。皆、自分の人生を精一杯に生きたい。だからこそ、いろんな人がいる中でも譲り合い、皆がそれなりに幸せに生きていけるように、折り合って行こうというのが道理ではないかと思うのです。
国という大きな集まりになったときに、個人の存在を超えた大義が発生するとか、組織そのものが責任を取ってくれるということはないと思います。多くの人間が集まったとしても人間の意識は融和せず、どこまで行っても一つ一つ個人のままです。行動の責任は究極的にはやはり個人にあると思います。
今国を動かしている人たちにも、もう一度個人の意識に立ち返って、良心に尋ねて、本当に正しいと思うことをしてもらいたいと思います。
アメリカに機会をもらってここに住み、活動しているという状況で、そうであればこそあらためて日本への愛着も日本人であるという意識も実感する日々の中、現在の日本の状況と、アメリカとの関係性にやるせない思いでいっぱいです。
国会前に駆けつけることはできませんが、気持ちは個人として考え、声を上げている皆さんと共に。私は安保法案に反対です。
2015年8月21日金曜日
2015年8月9日日曜日
レコーディング・セッション
残暑お見舞い申し上げます。日本では厳しい暑さが続くようですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。NYは、ここ数日の朝晩はもう秋になったかのような涼しさを感じました。
今週は、秋にリリースを予定している、室内楽曲のレコーディング・セッションを行いました。お世話になっている出版社が今年の特集作曲家として企画してくれたもので、7曲を2日間で録り切るという強行スケジュールでしたが、信頼する音楽家たちが気迫で演奏してくれて、とても良い録音を戴けました。
リハーサルからもライブパフォーマンスからも、作曲について学ぶことは多いですが、録音の過程からもまた勉強させてもらいました。「完璧」というものがなかなかありえない中で、何を大事としてこだわっていくのか。音楽を作るということは、常に選択の連続そのものだなと思いました。
また秋頃に、こちらのブログでもリリースについてお知らせさせていただければと思います。
2015年7月23日木曜日
"Isn't It Nice"
今日は二曲目の"Isn't It Nice(素敵じゃない)"をご紹介させて頂きます。
この曲では、諸事情あってお互いに気持ちを伝えられずにいる若者のカップルと大人のカップルが、他方のカップルが今何をしているか想像することで、次第にお互いに対する素直な気持ちを語るようになっていきます。
キャラクターは映像の左から、
ケイコ(日本の垂水に住む少女)
スティーブン(結核の療養のため垂水にやって来た中国人の青年)
マツ(スティーブンの家族が所有する垂水の別荘の使用人、造園の達人)
サチ(マツの幼なじみ、ハンセン氏病のため普段は隔離された村で暮らしている)
です。
シーンとしては、この歌の直前に大嵐が垂水を襲い、マツの庭も大きな被害を受けたものの、皆なんとか無事だった。というところです。(時代設定は1936年です。)
以下に意訳をつけさせて頂きます。お楽しみ頂ければ幸いです!
*****
ケイコ「さっき庭で出会った女の人は…、あなたのお母さん?」
スティーブン「いや、サチは、マツの友達だよ。」
ケイコ「友達ね…。彼ら、今何してると思う?」
スティーブン「庭仕事。」
ケイコ「それだけ?」
スティーブン「マツは庭仕事が大好きなんだよ。」
ケイコ「いいわ。じゃ彼らは今庭仕事をしていて、
”素敵じゃない”
彼女はここに、そして彼はそこにいるの。道具を渡し合ったりしながら、彼女が彼の方を向いてこう言うわ」
♪
ケイコ
『庭にいるのって素敵じゃない?土が柔らかで滑らかだわ。』
スティーブン「そしたらマツはこう言うんだ」
♪
スティーブン
『でも薔薇はダメになってしまった。』
ケイコ
『また育つじゃない、そうでしょ?』
スティーブン
『池もむちゃくちゃだ。』
ケイコ
『それでもきれいよ。マツ、私ここにいるの好きだわ。
素敵じゃない?』
サチ「あの子達、浜辺で何しているかしら?」
マツ「歩いてる。」
サチ「それだけ?」
マツ「スティーブンは歩くのが好きだ。」
サチ「いいわ、それじゃ彼らは歩いていて、そして彼女が振り向いてこう言うの。」
♪
サチ
『冬に散歩するのって素敵じゃない?周りには他に誰もいないわ。』
マツ「でもスティーブンは気が気じゃない」
♪
マツ
『誰かがそこにいる気がする!』
サチ
『心配するのはやめて、おねがいよ?』
マツ
『もし誰かに見られていたら?』
サチ
『あり得ないわ。スティーブン、私たちだけ、二人きりよ。
素敵じゃない?』
ケイコ
『全てが穏やかだわ』
スティーブン
『そして何もかもが正しい気がする。』
サチ
『あなたの指の震えも感じられるわ。』
マツ
『君の鼓動すら感じられそうだ!』
マツ&スティーブン
『素敵じゃないか?』
サチ&ケイコ
『素敵じゃない?』
スティーブン、ケイコ、マツ、サチ
『素敵じゃない?』スティーブン「だけどマツはそんなこと絶対に言わないよ。」
ケイコ「どうして?」
マツ「シャイだから。スティーブンは決して、」
サチ「知らない一面があるかも。」
ケイコ「もしかしたら彼女が、彼から大胆なところを引き出すかも。」
スティーブン「ともかく、僕らはこの浜辺で、あっちにいる彼らよりきっと素敵な時間を過ごしているよ。」
マツ「ともかく、あちらにいる彼らは、ここにいる私たちほどに素敵な時間は過ごしてはいまいよ。」
♪
マツ
お日様の下にいるって素敵じゃないか?
ケイコ
日の光が射すのを見て!
サチ
雲の中に踊っているわ!
スティーブン
素敵だ、本当に!
マツ
そしてあの葉のきらめき。
ケイコ
本当に素晴らしいわ。
マツ/スティーブン
サチ/ケイコ、僕はここにいるのが好きだ、素敵じゃないか?
ケイコ
町の外れにいるのって素敵じゃない?
マツ
噂好きの目を逃れて。
スティーブン
何を話してるか誰も知らない。
サチ
秘密なのよ!本当に!
ケイコ
何をしてるか誰も知らない。
マツ
見つかったら大目玉だ!
サチ/ケイコ
マツ/スティーブン、私たちだけ、二人きりよ、素敵じゃない?
サチ
手を握ってもいいわよ。
マツ
しっかりと抱き寄せよう。
スティーブン
夕暮れまで抱きしめていたいぐらいだ。
ケイコ
それならずっと側にいて、離さないで…。素敵じゃない?
マツ
素敵じゃないか?
ケイコ
素敵じゃない?
スティーブン
素敵じゃないか?
サチ
素敵じゃない?
スティーブン
素敵じゃないか?
スティーブン&ケイコ
もうどこへも行かない!ここを離れはしない!
今まさに、あなたとここにいるのだから!
マツ&サチ
あなたの側を離れない。もう決して寂しい思いはさせない。
ようやく一緒になれたのだから。
マツ&スティーブン
お日様の下にいるって素敵じゃないか?日の光が射すのを見て!
雲の中に踊っている!
素敵だ、本当に!
そしてあの葉のきらめき。
本当に素晴らしい。
サチ/ケイコ、僕はここにいるのが好きだ、
素敵じゃないか?
サチ&ケイコ
手を握ってもいいわよ。しっかりと抱き寄せるわ。
あなたの指の震えも感じられる。
あなたの鼓動すら感じられそうよ!
私ここにいるの好きだわ。
素敵じゃない?
スティーブン
素敵じゃないか?
ケイコ
素敵じゃない?
スティーブン
素敵じゃないか?
マツ
素敵じゃないか?
サチ
素敵じゃない?
マツ
素敵じゃないか?
ケイコ
素敵じゃない?
マツ&サチ
素敵じゃない…?
スティーブン&ケイコ
素敵じゃない…?
スティーブン、ケイコ、マツ、サチ
一緒にいられるのって、素敵じゃない?
2015年7月22日水曜日
"Down The Track"
先日の最終作品発表の際のビデオがYoutubeにアップロードできましたので、その中から二曲ほどご紹介させて頂きます。今日は一曲目の"Down The Track(線路を下って)"を。
この作品はゲイル・ツキヤマによる「The Samurai's Garden(侍の庭)」という小説を原作としています。
時は1936年。作品の早い段階のこのシーンで私たちは、香港の狭苦しい街の中で17歳のスティーブン・チャンに出会います。
この歌の直前に、スティーブンは彼の進学先が、彼の望んだ遠方の美術学校ではなく、香港にほど近い標準的な大学に決まったという知らせを受け、落胆しました。妹のペネロペが、彼の気持ちを和らげようと、あまり役に立たないことをします。
意訳ですが以下に日本語訳を載せさせて頂きます。お楽しみ頂ければ幸いです。
*****
ペネロペ「お兄ちゃんはもうずっと父さんの下で働くしかないんだわ。一生!だって他になんにもできやしないんですもの。」
スティーブン「言ったな、僕が他に何をするか見てるがいいさ。」
ペネロペ「口ばっかり。」
”線路を下って”
スティーブン「いいや、口だけじゃないさ。見てろ、僕は香港を出て行くんだ。母さんや父さんも今にわかる。僕はRMSエンプレス・オブ・ブリテンに乗って船出するんだ!それか、パンナム クリッパーに乗って飛び立って見せる!」
♪
スティーブン
もし僕が汽車になれるなら、話は簡単さ
さっさと出発して
線路を下って行くんだ。
風はひゅーひゅー鳴って
目の前に曲がりくねった道が
どんどんほどけて行く
線路を下っていくだけで。
閉所恐怖症とはおさらばさ!
誰かブレーキを外して
火を焚いてくれ。
木々は一斉にぼやけて見えるかもしれない、
だけど一瞬にして僕の道は開ける。
ここを離れて
線路を下って行く程に。
(ペネロペ笑い出す)
スティーブン「わかったよ、何がそんなにおかしい?」
ペネロペ「お兄ちゃんが。」
スティーブン「僕?」
ペネロペ「バカじゃないの。汽車になんかなれるはずないじゃない…」
♪
スティーブン
汽車になったらその次は、最高に魅惑的な場所を訪ねるんだ
線路を下って。
ペネロペ
線路を下って。
スティーブン
万里の長城やタージ・マハルそしてパリのルーブル美術館が
待っている。
線路を下ったすぐそこで。
ペネロペ
線路を下ったすぐそこで。
スティーブン
退屈とはさよならさ。僕には冒険が必要なんだ。
決して飽きる事のない。
この場所はとてもついてこれないのさ。
新しい境界線のもつ興奮に
スティーブン&ペネロペ
ここを離れて線路を下ったすぐそこの。
スティーブン
そして僕が、
ペネロペ
そしてお兄ちゃんが、
スティーブン
地上を駆け抜け、有名な地を見届け、
走って行くにつれ、
君にも聴こえるだろう!
ペネロペ
聴こえるでしょう!
スティーブン
僕の汽笛で大気を満たし静かな空を切り割いて行くんだ。
そして一瞬にして
ペネロペ
一瞬にして
スティーブン
僕は向こう側にいる
ペネロペ
向こう側にいる
スティーブン
地球の向こう側に!
ペネロペ
地球の向こう側に!
スティーブン&ペネロペ
行き先なんてどこでもいい!
スティーブン
たった1つだけ探しているものがあるんだ。どこかにあるはずなんだ。
僕が自分の道を見つけて
頑張り通せるような居場所が
線路を下ったどこかに。
ペネロペ
線路を下ったどこかに。あるかもしれない。
スティーブン
きっとあるはずだ。ここを離れたどこかに。
ここを離れたどこかに。
*****
2015年7月1日水曜日
最終作品発表
今年も早くも折り返しの7月になりました。元旦の冷たい空気も清新な気持ちになりますが、夏の始まりに年の区切りを感じるのも悪くないなと思います。
先週BMIワークショップでの最終作品発表があり、6月後半は怒濤のように過ぎて行きました。この二年間の集大成と思うと気持ちも力も入り、ぎりぎりまで準備に追われましたが、結果は「やれることはやり切った」と思えるものでした。そしてつい先日その審査結果が通知され、無事三年目以降のクラス、Advanced Classに進む事ができました。大変ありがたいです。
発表の振り返りや2年間の復習などして、秋からのクラスに備えたいと思っています。
2015年6月16日火曜日
2015年6月10日水曜日
第八回:後書き
以上、本編六回にわたってBMIワークショップ、及びそこで学んだミュージカル・ソング・ライティングについてまとめさせて頂きました。
少しBMIワークショップに至るまでの個人的な経緯を振り返らせて頂きますと、ミュージカルを作曲することに興味を持ち始めたのは、大学の授業のプロジェクトとして同級生と制作したことがきっかけでした。もう約10年ほど前になります。それまでにも、もともとお芝居は好きで演じるということに憧れを持っていたのと、音楽の和声進行で人の表情を描き出せるのではないかということに興味があったので、今となってはそれらをコネクトできるのではという思いも少しはあったのだろうかと思いますが、当時はともかく単純に仲間との制作が楽しく、魅せられました。
そしてBMIワークショップで、ミュージカル・ソング・ライティングおよびミュージカルの作りについて学びはじめると、ミュージカルがいかに感覚的に楽しめるべきものであり、そしてそのためにいかに緻密で論理的に作られているかを知るにつれ、益々制作に魅力とやりがいを感じました。同時に今のままの自分では太刀打ちできないと思うことも増えるばかりですが、できるようになりたい事が具体的に見つかっていくことはありがたいです。
今年でアメリカに来て6年になるのですが、BMIワークショップでは、やはり言語と文化の理解におけるクラスメートとの差は歴然と感じています。ただ、それでも尚ミュージカルというアート・フォームに惹かれる思いは募るばかりで、作品の多様性や音楽の持つ作品における役割から、自分の持つ文化背景や音楽的背景によってこそ貢献できることもあるのではと微かながら信じて取り組んでいます。
また、いつかは日本語のミュージカルを書きたいという思いも大きな目標としてあるのですが、今学んでいる事の中には英語という言語を前提として成り立っている事柄も非常に多いと感じるので、それらをどのように生かしていけるのかは、これからの課題として模索していきたいと思っています。
長々となってしまい、お読み苦しい部分も多々あったかと思いますが、お付き合い下さり本当にありがとうございました。次回からは通常の投稿に戻りますが、また折に触れて、ミュージカルに関する記事を書いて行ければと思っています。
2015年6月9日火曜日
第七回:BMIワークショップについて「コラボレーション」
今回はBMIワークショップについての最終回として、「コラボレーション」について書きたいと思います。
これまでに、BMIワークショップの概要(第五回)とプログラムの概要(第六回)を見てくる中で、詳しく触れないまま「コラボレーション」という言葉を用いてきてしまったのですが、今回は私自身の経験も雑えながら少し掘り下げて書いてみたいと思います。
まず、ソング・ライティングにおける「コラボレーション」の概要なのですが、「合作」というその単語の意味通り、作詞家と作曲家が共同で曲を書くこと、及びその過程を指します。ただその際に、どのような順番で、どのような割合で合作をするのかは、ペアによって様々に異なります。
例えば作曲家リチャード・ロジャースは、作詞家ロレンツ・ハートとペアを組んでいた時(『パル・ジョーイ』、『シラキーズから来た男たち』等)はメロディーを先に書き上げて作詞を待ち、また作詞家オスカー・ハマースタイン2世と組んでいた時(『オクラホマ!』、『王様と私』等)には、先に書き上げられた歌詞に対して作曲したそうです[1]。
ただ、BMIワークショップでは、歌詞と音楽のどちらかを単独で先に書き上げてしまうのではなく、曲のアイディアを発想する段階からやり取りをして、二人でほぼ同時進行で書き上げて行く事を推奨されているので、私もそのように心がけてコラボレーションに取り組んできました。
具体的には、まずコラボレーターと曲のアイディアを話し合って、”Hook"(フック)[2]を決めます。そして更に曲の構成を話し合った後、作詞家か作曲家のどちらかが先行して1セクション、もしくは1コーラスといったある程度まとまった量の素材を書いてコラボレーターに渡します。もらった方はそれに対してフィードバックを返し、調整のやり取りを経て方向性が定まったら、自分のパートを書き加えて返します。そのように、互いに触発されて書き進めながら、同時に調整を繰り返し、全体像を立ち上げていきます。
その際、お互い作詞と作曲で、相手の分野には極力踏み入らないように気をつけるのですが、どうしても曲の方向性に対してしっくり来ないと思う場合には伝え合い、また自分の分野について客観的な意見を求めて相談することもあるので、最終的に出来上がった曲については、歌詞・音楽共に少なからず両方のアイディアが反映されていて、まさに合作という気がします。
ちなみにコラボレーションの中で作詞家と作曲家のどちらが先行して書き始めるのかについては、音楽から先に書いた方が魅力的なメロディーが生まれやすいとされているので、私のペアでも基本的に毎曲そのように取り組んでいます。
そうすることによって、英語が母国語でない私にとっては、言葉のアクセントや文章のイントネーションに沿わないメロディーをつけてしまう心配がない、という点でもありがたいのですが、同時に言葉の手がかりなしにメロディーを書き始めるのは、慣れるまで少し心もとなくもありました。ただ、メロディーにコラボレーターがつけてくれた歌詞を入れて歌ってみる瞬間は、歌に命が吹き込まれたかのようで、コラボレーションの中でも最もわくわくとする瞬間です。
BMIワークショップでの二年間のコラボレーションを振り返ってみると、一年目はともかく様々な相手と組むことで、コラボレーションというプロセスを学びながら、一番心地よいと感じる取り組み方を探す過程だったように思います。二年目は一人のコラボレーターとじっくりと作品に向き合うことで、また非常に多くの事を学んだと感じています。
以上、三回にわたってこちらも急ぎ足でBMIワークショップについてと、そこでの活動について書かせて頂きました。次回はあとがきにて、締めくくりとさせて頂きたいと思います。
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[1] http://performingsongwriter.com/richard-rodgers/より
[2] Hook(フック)については第四回「歌の作り」をご参照ください。
2015年6月8日月曜日
第六回:BMIワークショップについて「プログラムの概要」
今回はBMIワークショップのプログラムの概要について書かせて頂きます。
クラスは一学年40人弱で、人数の内訳はLyricist(リリシスト:作詞家)とComposer(コンポーザー:作曲家)がだいたい半数ずつです(中には一人で両方を兼ねている人もいます。)。クラスメートのバックグラウンドは様々ですが、作詞家には比較的俳優出身の人が多く、作曲家はクラシック、ポップス、ジャズなど様々なジャンル出身の人がいます。
プログラムの一年目では、年間を通してモデレーターから次々とソング・ライティングの課題が出され、その度に作詞家と作曲家のペアも発表されて、毎回違うコラボレーター[1] と課題に取り組みます。課題は、指定された既存の物語/キャラクター/シーンに、指定された曲種の曲を書くといったものです(例:「映画『欲望という名の電車』の主人公のブランチに、ストーリーの前半のシーンで、キャラクター・エスタブリッシュメント・ソング[2] を書く」)。課題と共にコラボレーターも目まぐるしく変わっていくので、お互いを通してコラボレーションのやり方を学んでいく感じでした。
二年目は、クラスメートの間で自分たちでペア[3] を組み、題材(既存の物語)を選び、一年間かけてミュージカルを書いていきます。クラスでプレゼンテーションするのは第一幕の曲のみ、かつオープニングナンバーを除くという指定がありますが、それ以外はペアで自由に書き進めることが出来て、段々クラスが、基礎を学ぶ場から、作品を書き進めるために批評をもらう場へと移行していきます。
三年目は、二年目以降に進んだ全てのライターが所属するのですが、ここはまさに各自が独自のプロジェクトを抱えて作品を書き進めている中、曲を試す場そのものであり、また定期的にある"Master class"(マスタークラス:公開レッスン)などで、第一線で活躍する講師の指導が受けられる機会も増します。
クラスにおける具体的な活動(一年目〜三年目まで共通)は、毎回5〜6組のペアによる曲のプレゼンテーションと、そしてそのそれぞれに対して行われる合評会です。合評会では、プレゼンテーションの際に観客側にいたクラスメートが、曲に対して感じた事(どこが良いと思い、どこがうまくいっていないと感じたか、または提案等)を次々とフィードバックしていき、最後にモデレーターがまとめのコメントをします。
この合評会という活動によって、プレゼンテーションする側は、具体的に曲の書き直しの為のアイディアをもらえるばかりでなく、作品を通してソング・ライティングのノウハウを学べると同時に、その活動自体が客観的なフィードバックを冷静に受け止める練習になっています。そしてフィードバックを返す側にとっても、作品に対する批評眼を養う訓練になっていると思います。
これらはマネス大の作曲科で勉強していた時にはなかった経験だったので、始めは批評を受ける事が怖かったのですが、クラスを重ねるごとに皆それなりに失敗する(良いと思って試したアイディアがうまくいかなかった等)ということと、むしろそれがクラス全体にとっての学びの機会になるということがわかり、段々恐れずにチャレンジできるようになっていきました。
ちなみにクラスでのプレゼンテーションは、教室にあるピアノを使って、基本的には作詞家・作曲家自らが演奏することで行います。沢山のキャラクターが歌う曲などはクラスメートに手伝ってもらったり、また二年目以降は外部から歌手を連れて来てもいいことになっていますが、ぎりぎりまで書いていて人に演奏を頼むのが間に合わない場合もあり、その際は作詞家がキャラクターの名前を書いたカードを持って1人で何役もこなしたり、作曲家もピアノを弾きながら歌ったりして、なんとかプレゼンテーションを成立させます。
また、クラスにおける配布物はレクチャーの際の資料やスケジュール以外はほとんどありません。課題は口頭で発表され、それぞれが映像や文献など資料などに当たって取り組み、またプレゼンテーションの際にも楽譜は配布せず、聴きながら分析をしてフィードバックを返します。はじめは何か心もとない気がしたのですが、慣れてくるとクラスに集まった「人」こそがお互いにとって教科書であり教師なのだなあと感じ、これほど実践的に学べる形式はないのではとすら思いました。
今回は、BMIワークショップのプログラムの概要についてまとめさせて頂きました。次回はBMIワークショップについての最終回として、「コラボレーション」について書きたいと思います。
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[1] ペアを組んでいる作詞家なり作曲家の事は、"Collaborator"(コラボレーター)と呼んだり、"Writing Partner"(ライティング・パートナー)と呼んだり様々なのですが、今回は「コラボレーター」で統一させて頂きます。
[2] キャラクター・エスタブリッシュメント・ソングとは、そのキャラクターの人柄、置かれている状況、人生観等の基本的な人物設定を凝縮した歌です。主要なキャラクターには、一幕の前半にこの曲を歌う機会が与えられます。第三回「サブテクスト」の時に例に挙げたシカゴの”All I Care About”も、曲種としてはこのカテゴリに当たります。
[3] 作詞家と作曲家のペアのことは"Writing Team”(ライティング・チーム)と呼ぶことが多いのですが、便宜上今回は「ペア」で統一させて頂きます。
2015年6月6日土曜日
第五回:BMIワークショップについて 「BMIワークショップの概要」
今回からは、BMIワークショップについて三回にわたって書かせて頂きたいと思います。
それではまず、BMIワークショップの概要についてご説明させていただきます。
BMIとはBroadcast Music Incorporatedの略称で、アメリカにおける二大著作権協会のうちの1つ[1]です。そしてBMIワークショップとは、正式にはBMI Lehman Engel Musical Theatre Workshopといい、ブロードウェー・ミュージカルの往年の名指揮者であったリーマン・エンゲル氏[2]とBMIのパートナーシップによって1961年に設立されました
以来、現在に至るまで数々のミュージカル作家を生み出してきました。有名なところでは、アラン・メンケン(『美女と野獣』)、モーリー・イェストン(『タイタニック』)、トム・キット&ブライアン・ヨーキー(『ネクスト・トゥ・ノーマル』)、ロバート・ロペス&ジェフ・マークス(『アベニューQ』)等が出身者です。
BMIワークショップに参加するには、毎年夏にオーディションがあり、合格すれば費用はBMIが持ってくれるので学費は必要ありません。二年間、週一回二時間のクラス[3]に参加する事で、Lyricist(リリシスト:作詞家)とComposer(コンポーザー:作曲家)のコラボレーションを通してミュージカル・ライティングの基礎と応用を学びます。そして、二年目の最後にオーディションがあり、それに通れば三年目以降のAdvanced Class(上級クラス)に参加する事ができます。
今回は、手短かにBMIワークショップの概要について書かせて頂きました。ご興味のある方は、英語のページですが、こちらにBMIワークショップのモデレーター[4]パット・クック氏のインタビューが載っているのでご参照下さい。
次回はBMIワークショップのプログラムの概要について書かせて頂きます。
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[1] もう1つはASCAP (American Society of Composers, Authors and Publishers)。
[2] Lehman Engel (1910–1982):アメリカの作曲家、ブロードウェイ・ミュージカル、テレビ、映画の指揮者
[3]「ワークショップ」という言葉は色々な意味で使われるため定義するのが難しいのですが、BMIワークショップに関しては、その活動内容から実際には「クラス」に近く、そう呼ぶことも多いです。
[4] "Moderator”(モデレーター:司会者)とは、BMIワークショップのクラスをリードする、実質先生のことなのですが、ワークショップであるためかTeacherではなくModeratorと呼びます。
2015年6月5日金曜日
第四回:ミュージカル・ソングについて「歌の作り」
この数日思いがけず家のインターネットがダウンしてしまい、投稿に間が開いてしまいました(汗)今日から続きを書いていきたいと思います。
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これまでの回で、ミュージカルにおける歌と台詞の役割(第二回「なぜ歌うか」)、ミュージカル・ソングにおける歌詞と音楽の役割(第三回「サブテキスト」)について見てきました。
今回はミュージカル・ソングについての最終回として、歌の持つ効果という視点から、「歌の作り」について書いていきたいと思います。
ミュージカルではそれぞれの曲は基本的には作中で一度しか聴かれないため [1]、その条件の中で歌という表現の効果が最大限発揮されるよう、「歌の作り」として以下のようなことが意識されています。
メロディー:歌いやすく、かつ歌詞が聞き取りやすいか
歌詞:論点は1つに絞られていて、かつそれが論理的に展開しているか
音楽:特定の音楽ジャンルに寄りかかっていないか
形式:AABA形式で書かれているか
その他:Cliché(クリシェ:決まり文句)を無意識に使っていないか
メロディーについては、具体的には言葉のアクセントが正しく反映されているか、自然な英語のリズムで喋ったように聞こえるか、適度に正しく"Rhyme"(ライム:韻律)を踏んでいるか、そして言葉数が多すぎたり少なすぎたりしないか等が、メロディー自体の魅力もさることながら、良い歌の必要条件とされています。
歌詞の論点は"Hook"(フック)という、歌詞(及びメロディー)の1フレーズに凝縮させます。このフックは曲中何度も繰り返され、大抵の場合、曲のタイトルにもなっているのですが(例:『ウェスト・サイド・ストーリー』"Maria"「マリア」)、これは論文でいうところの結論にあたり、歌詞の全ての内容がこのフックに向かって収束していくように論理を組み立てます。このような組み立ては、ミュージカル・ソングが曲の進行に沿ってその内容がスムーズに理解される必要がある為で、観客をつまづかせてしまうような論理的矛盾や、「考えれば理解できる」ような少しの論理的飛躍もないように展開することを目指します。
形式については、近年のミュージカル・ソングの多くがポップス曲の「ヴァース‐コーラス形式」でも書かれていますが、物語や概念を伝えるには、本来このAABA形式(各セクションが8小節ずつの計32小節で1コーラスを構成する歌の形式)が最適とされており、多くの名曲もこの形式で書かれています(例:『ウェスト・サイド・ストーリー』”Tonight”「トゥナイト」)。
特定の音楽ジャンルを用いると、その途端に音楽が一般化してしまい、キャラクターという個人の、固有の感情から距離ができてしまって、観客が真剣に感情移入することができなくなるとされています。作品全体が特定の時代や音楽ジャンルに属するような場合でない限りは、できるだけ特定の音楽ジャンルに寄りかかることは避け、キャラクター自身から自然と現れて来る音楽を模索します。
ここで言うCliché(クリシェ:決まり文句)とは、歌詞における常套句もさることながら、音楽的に使い尽くされた決まり文句(特定のコード進行や、特定の音程を多用した伴奏形等)のことも指し、上記の、特定の音楽ジャンルを用いない事と同じ理由から避けるようにします。
ここまで、歌の効果をより発揮するという視点で見てきましたが、言葉には歌う事によってその意味が増幅されるという側面もあり、そのため歌詞における言葉の選び方や内容によっては、必ずしも意図しないネガティブな効果が生まれてしまうことがあります。そのため以下のことも意識されています。
歌詞:禁句を使っていないか、内容が自己憐憫になっていないか
禁句を歌詞の中で表現として絶対に使ってはいけないわけではないのですが、その意味が増幅される事を念頭に置き、特別の意図がある場合(キャラクターの口癖であるとか、特に衝撃的な効果を出したい場合など)に限ってよほど慎重に使うべきとされています。また、コメディーとして笑い飛ばすのでない限りは、キャラクターが自己憐憫の内容を歌うと、観客が自身のコンプレックス等とリンクさせて捉えてしまう可能性があるため、こちらも避けるべきとされています。
以上、箇条書きになってしまいましたが、歌のポジティブな効果を最大限に発揮させ、ネガティブな効果を最小限におさえる為に意図された歌の作りを見てきました。ソング・ライティングの際にはこれらを意識して取り組むのですが、互いに密接に絡み合う要素も多く、初稿からこれらを全てクリアするのはなかなか難しいです。実際にはまずはともかくベストだと思う状態に書き上げて、人に聴いてもらっては指摘を受け、書き直しを重ねる事で仕上げて行く、という行程を辿ることが多く、BMIワークショップでもその活動を重ねています。
以上、三回を通して駆け足ながらミュージカル・ソング、及びそのライティングについて、特に重要であると感じている事をまとめてみました。次回からはBMIワークショップについて書かせて頂きます。
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[1] “Reprise”(リプライズ)として、作品にとって特に重要な曲などが作品の後半で再び歌われることはあります。
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これまでの回で、ミュージカルにおける歌と台詞の役割(第二回「なぜ歌うか」)、ミュージカル・ソングにおける歌詞と音楽の役割(第三回「サブテキスト」)について見てきました。
今回はミュージカル・ソングについての最終回として、歌の持つ効果という視点から、「歌の作り」について書いていきたいと思います。
ミュージカルではそれぞれの曲は基本的には作中で一度しか聴かれないため [1]、その条件の中で歌という表現の効果が最大限発揮されるよう、「歌の作り」として以下のようなことが意識されています。
メロディー:歌いやすく、かつ歌詞が聞き取りやすいか
歌詞:論点は1つに絞られていて、かつそれが論理的に展開しているか
音楽:特定の音楽ジャンルに寄りかかっていないか
形式:AABA形式で書かれているか
その他:Cliché(クリシェ:決まり文句)を無意識に使っていないか
メロディーについては、具体的には言葉のアクセントが正しく反映されているか、自然な英語のリズムで喋ったように聞こえるか、適度に正しく"Rhyme"(ライム:韻律)を踏んでいるか、そして言葉数が多すぎたり少なすぎたりしないか等が、メロディー自体の魅力もさることながら、良い歌の必要条件とされています。
歌詞の論点は"Hook"(フック)という、歌詞(及びメロディー)の1フレーズに凝縮させます。このフックは曲中何度も繰り返され、大抵の場合、曲のタイトルにもなっているのですが(例:『ウェスト・サイド・ストーリー』"Maria"「マリア」)、これは論文でいうところの結論にあたり、歌詞の全ての内容がこのフックに向かって収束していくように論理を組み立てます。このような組み立ては、ミュージカル・ソングが曲の進行に沿ってその内容がスムーズに理解される必要がある為で、観客をつまづかせてしまうような論理的矛盾や、「考えれば理解できる」ような少しの論理的飛躍もないように展開することを目指します。
形式については、近年のミュージカル・ソングの多くがポップス曲の「ヴァース‐コーラス形式」でも書かれていますが、物語や概念を伝えるには、本来このAABA形式(各セクションが8小節ずつの計32小節で1コーラスを構成する歌の形式)が最適とされており、多くの名曲もこの形式で書かれています(例:『ウェスト・サイド・ストーリー』”Tonight”「トゥナイト」)。
特定の音楽ジャンルを用いると、その途端に音楽が一般化してしまい、キャラクターという個人の、固有の感情から距離ができてしまって、観客が真剣に感情移入することができなくなるとされています。作品全体が特定の時代や音楽ジャンルに属するような場合でない限りは、できるだけ特定の音楽ジャンルに寄りかかることは避け、キャラクター自身から自然と現れて来る音楽を模索します。
ここで言うCliché(クリシェ:決まり文句)とは、歌詞における常套句もさることながら、音楽的に使い尽くされた決まり文句(特定のコード進行や、特定の音程を多用した伴奏形等)のことも指し、上記の、特定の音楽ジャンルを用いない事と同じ理由から避けるようにします。
ここまで、歌の効果をより発揮するという視点で見てきましたが、言葉には歌う事によってその意味が増幅されるという側面もあり、そのため歌詞における言葉の選び方や内容によっては、必ずしも意図しないネガティブな効果が生まれてしまうことがあります。そのため以下のことも意識されています。
歌詞:禁句を使っていないか、内容が自己憐憫になっていないか
禁句を歌詞の中で表現として絶対に使ってはいけないわけではないのですが、その意味が増幅される事を念頭に置き、特別の意図がある場合(キャラクターの口癖であるとか、特に衝撃的な効果を出したい場合など)に限ってよほど慎重に使うべきとされています。また、コメディーとして笑い飛ばすのでない限りは、キャラクターが自己憐憫の内容を歌うと、観客が自身のコンプレックス等とリンクさせて捉えてしまう可能性があるため、こちらも避けるべきとされています。
以上、箇条書きになってしまいましたが、歌のポジティブな効果を最大限に発揮させ、ネガティブな効果を最小限におさえる為に意図された歌の作りを見てきました。ソング・ライティングの際にはこれらを意識して取り組むのですが、互いに密接に絡み合う要素も多く、初稿からこれらを全てクリアするのはなかなか難しいです。実際にはまずはともかくベストだと思う状態に書き上げて、人に聴いてもらっては指摘を受け、書き直しを重ねる事で仕上げて行く、という行程を辿ることが多く、BMIワークショップでもその活動を重ねています。
以上、三回を通して駆け足ながらミュージカル・ソング、及びそのライティングについて、特に重要であると感じている事をまとめてみました。次回からはBMIワークショップについて書かせて頂きます。
**********
[1] “Reprise”(リプライズ)として、作品にとって特に重要な曲などが作品の後半で再び歌われることはあります。
2015年5月31日日曜日
第三回:ミュージカル・ソングについて「サブテキスト」
今回は"Subtext"(サブテキスト)という概念について、ミュージカル・ソングにおける歌詞と音楽の役割とも合わせながら書いていきたいと思います。
「サブテキスト」とは"Text"(テキスト)に対する"Subtext"(サブテキスト)、すなわち「文章」に対してその「行間」にあたり、芝居においては台詞や行動で表していることに対して、その裏にある考えや感情にあたります。
サブテキストは、日常においても様々な形で存在すると思うのですが、例えば、本当はものすごく辛い時でも「大丈夫?」と聞かれると、相手に心配をかけたくない等の思いから、「全然平気!」と応えたりするような場合、「本当はものすごく辛いけど、心配はかけたくない。」というのがサブテキストです。
この矛盾した状態を、ミュージカルにおいては歌で絶妙に表す事ができます。というのも、ミュージカル・ソングにおいては、それぞれ歌詞がテキストを、音楽がサブテキストを担当するためです。
先ほどの例にあてはめると、歌詞では「全然平気!」と言っていても、音楽が「ものすごく辛い」感じだった場合、観客はそのミスマッチに気づき、そして「ああ、本当は辛いけど、無理して平気と言っているんだな。」とわかります。
実在のミュージカル・ソングでは、『シカゴ』で、弁護士のビリー・フリンが歌う、"All I Care About"(「私にとって大切なのは」)が良い例かと思います。この曲でビリーは、一貫して「お金なんかいらない。私にとって大切なのは愛なんだ。」と歌詞では真摯(そう)な主張を展開しますが、一方音楽は実に軽妙で、むしろ彼の話術や世渡りのうまさの方を想起させます。結局、その後のストーリーの流れからも、彼にとって大切なのがお金であることは明白になり、タイトルで"All I Care About (Is Love)"と言い切らないことでそれを暗示しているのも絶妙だなと思います。
そのようにミュージカル・ソングにおいては、キャラクター [1] にその考えや感情をあからさまに歌詞として歌わせるのではなく、上記のようにサブテキストとして音楽で語らせるようにするので、その表現が成り立つ前提として、歌詞はあえて嘘をつくことができる一方で、音楽はいつも本当の感情を語るように作られています(音楽は歌の「嘘発見機」とも称されます)。
そのため、もし描き出そうとしている感情が音楽で的確に表せていない場合は、それ自体がどんなに素敵な曲であっても、残念ながらミュージカル・ソングとしては機能していないということになります。
今回は「サブテキスト」という概念について、ミュージカル・ソングにおける歌詞と音楽の役割と合わせてまとめてみました。次回は、ミュージカル・ソングについての最終回として、「歌の作り」について書きたいと思います。
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[1] "Character"(キャラクター)は「登場人物」のことなのですが、キャラクターと言う語の方が、それぞれの人格を指す意識が感じられるように思うので、今回は「キャラクター」の語で統一させて頂きます。
2015年5月30日土曜日
第二回:ミュージカル・ソングについて「なぜ歌うか」
今回からは三回にわたって、BMIワークショップに参加する中で学んだミュージカル・ソング、及びそのライティングについてまとめさせて頂きたいと思います。
それでは今回は、ミュージカルでは「なぜ歌うか」、ミュージカルにおける歌うという表現について書いていきたいと思います。
歌うという表現は、ミュージカルにおいて特徴的な表現形式の1つですが、ただしミュージカルではエンターテインメントの為だけに、芝居の中に音楽を挿入したり、台詞を無理矢理歌にしているわけではなく、物語をより良く伝える目的で、歌には歌の、台詞には台詞の役割が明確に意図されています。
というのも、同じ情報量を伝えるのであれば、実際には歌うよりも台詞で言った方が短時間ですむわけですが、逆に歌だからこそできることがあり、その効果は"Magic of Musical Theatre"(ミュージカルの魔法)とも呼ばれます。
例えば、「出会ったばかりの二人が恋に落ちる」とか「あっという間に月日が流れて」という、台詞のやり取りで自然に観せるには、ある程度まとまった時間のかかるストーリー展開が、歌と、更に照明や装置の転換を以てすれば、ほんの数分のうちに成し遂げられてしまいます。それは、歌という非日常的な表現によって、まさに魔法がかかったように、急激な場面転換やストーリーの加速さえも自然に受け入れられてしまう、ということなのではないかと思います。
ただし、歌は基本的に感情を歌い上げる劇的な表現なので、ストーリー展開の為に観客にしっかりと聞いておいてもらいたい情報などは、台詞で淡々と展開した方が効果的なこともあり、どこを歌にするかという"Song Moment"(ソング・モーメント)の見極めは、制作において非常に重要な部分です。
また、ミュージカル・ソングの傑作の中には、後にスタンダードとしてそれ自体が大ヒットした曲もありますが、制作の段階ではどの曲もあくまで作品の一部として意図されており、物語を進める役割を担っているので、ミュージカル・ソングは他のジャンルの歌とは内容的に少し違った特徴を持っています。
それは「感情が頂点まで高まった場面で歌い出す」という点と、そして「歌い終わった時には別の境地に辿り着いている」という点です。それに関して、作曲家ジェイソン・ロバート・ブラウン[1]が、あるインタビューの中で「(ミュージカル・ソングと対比して)ポップス曲では、感情が必ずしもどこかに向かう必要がないので、それはそれで書くのが楽しい。」と語っていたのを聞いたことがあり、印象的でした。
すなわち、感情が高まっていない場面はミュージカルにおけるソング・モーメントではないですし、歌い終わった時に心境的に何も変化していなければ、それもミュージカル・ソングとして成功しているとは言えないことになります。
また、歌うということがミュージカルにおける1つの表現形式であることから、登場人物が「自分は今歌っている」と認識しながら歌っているような歌も、基本的にはタブーとされています(例外はあるそうです)。
今回はミュージカルにおける歌うという表現についてまとめてみました。次回は「サブテキスト」という概念について書きたいと思います。
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[1] Jason Robert Brown (1970 - ):トニー賞受賞作品『パレード』、『マディソン郡の橋』の作曲者
2015年5月29日金曜日
第一回:前書き
予告させて頂いてから少し時間が開いてしまいましたが、今回から全八回にわたってBMIワークショップ、及びそこで学んだミュージカル・ソング・ライティングについて少しまとめてみたいと思います。
まだまだ勉強中の身ですが、ここでの経験を様々な形で(作品が一番ですが!)発信していきたいという思いから、今後定期的に振り返っては修正していくつもりで、書かせて頂ければと思います。少しマニアックな内容になってしまうかと思いますが、願わくばミュージカル[1]に興味のある方にも、そうでもない方にも、少しでも面白く読んで頂ければ幸いです。
今回は、私がBMIワークショップに参加する中で、特にソング・ライティングについて学んだことを、適宜それに対する考察を雑えながら書かせて頂きます。いずれは文献等参照して内容を補強するとともに、ミュージカル作品全体の組み立てや、上演に至るまでのプロセスについて、またBMI以外のワークショップやプログラム、フェスティバル、アワード等、そしてできればアメリカ以外の国でのミュージカルについても、あらためてまとめられる機会があればと考えています。
それでは次回から、まずはミュージカル・ソングについて三回に分けて書いていきたいと思います。
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[1] 英語では「ミュージカル」のことを"Musical Theatre"(ミュージカル・シアター)と呼ぶことが多いのですが、今回は「ミュージカル」で統一させて頂きます。
2015年5月15日金曜日
セントラルパーク散歩
またまた間が開いてしまいました。近頃はBMI Workshopでの発表が立て込み、そちらで少し忙しくしていたのですが、先日ようやく今年最後の発表が終わりました。
クラス自体はまだあと一ヶ月ほどあり、来月からはAdvanced Classへのオーディションを兼ねた最終発表に入るのでそれに向けてこれから書き直しにかかるのですが、ひとまず一区切りが着いた事にほっとしています。
そこでこの機会に、5月中に数回に分けてWorkshopについてこちらのブログでまとめさせてもらいたいと思っています。良ければどうぞおつき合い下さい。
ところで先日は、そのほっとした勢いで久しぶりにCentral Parkをゆっくりと散歩して来ました。
少し曇りで涼しめの日だったのですが、歩いて回るにはとても良いお天気でした。
Central Parkはなかなか広く、まだ全部をぐるっと回ってみたこともないのですが、今回は今まで行ったことのなかった北側から入ってみたので色々と新しい発見があり楽しかったです。今年の冬も長かったので、短い春を出来るだけ満喫したいと思います。
2015年4月29日水曜日
校舎移転
お久しぶりです。ここ数ヶ月予定が立て込んでいたのがようやく少し落ち着き、気がつくとNYもすっかり春になっていました。(写真はハドソン川沿いのRiverside Parkです。)
今日は母校のマネスに顔を出しました。卒業してすぐの頃はリハーサルなどで時々訪れることもあったのですが、この一年ほどはすっかりご無沙汰していました。実はマネスは次の学期からダウンタウンの新しい校舎に移るため、このブログのタイトルにも使わせてもらったこのWest 85th streetの校舎はなくなってしまいます。
日差しが心地よく差し込む、通りに面した大きな窓や、
お昼ご飯を食べていたホール前のスペース。
決して広くはないフロアに密集する練習室。そしてその廊下の奥の小さな隠れスペース(レッスンの後よくそこで一息つきました)も懐かしいです。
訪れてみると記憶の中の姿そのままでしたが、もう失われてしまうのかと思うとやはり寂しく思いました。
ただ、お世話になった先生方にも挨拶できて、「新しい校舎でも教え続けるから」と言ってもらうと、まだまだ母校は健在だと思えました。
時代の変化に伴って、学校の存続の為にはこれからもっと色々な変化があるのだろうと思いますが、卒業生としてここで学んだ事を大切に活動していきたいと改めて思いました。
2015年3月22日日曜日
春の近況報告
またまた間が空いてしまいました。。この頃少し予定が立て込んでしまい、日々書きたいことは募るばかりなのですが書くタイミングを見つけられず、もどかしい思いをしています。また落ち着きましたら定期的に更新していきたいと思っていますので、もしも気長にお付き合い頂けましたらありがたいです。
NYは、ここ数週間は気温もほぼ安定してプラス台になり、青空も見えるようになりました。と思いきや、数日前にはまた一日雪が降りしきったのですが…。それでも春が確実に近づいているのを感じます。
ところで先日、お世話になっている楽譜出版社のAbundant Silence Publishingから、今年の特集作曲家(訳してみるとちょっと変な感じですが(汗)、英語ではFeatured Composing Artistです)として、更なる出版や企画の話を頂きました。また具体的にこちらで報告させて頂ければと思っています。
それでは皆様どうぞお風邪などひかれず、春を満喫されますよう。
2015年2月28日土曜日
トンネルを掘る
早いもので、もう二月も最終日ですね。
先日の風邪では久しぶりに数日寝込んでしまったのですが、元気になってきました。外の気温はまだ低いですが、日差しは春めいてきています。風邪もいつか治り、冬もいつか春になる、ということは本当にありがたいことだと思います。
今は、来週ワークショップで発表があるためその曲を書いています。今年度のワークショップでは自分たちで選んだ題材で作品を書き進めていて、これまでに5曲ほど書きました。今回の曲は以前に発表した曲の書き直し(rewrite)なので、曲の素材はもともとあるのですが、発表時にもらったフィードバックを反映してより深く彫り込む作業に取り組んでいます。(作品についてはまた詳しく書かせてもらいたいと思っています。)
ところで作曲の段になると、いつもながら余裕がなくなってしまうなと感じます。まるでトンネルを掘っているような気分で、少しでもスコップの入りそうな所を見つけて形振り構わず掘って行く感じです。できるだけ時々一歩下がって全体を見るようにはしてみるのですが、冷静ではないなあと感じます。掘り進む指針になるような重要な勉強は、作曲に取りかかる前の冷静な時にしておかなければと実感します。
先日の風邪では久しぶりに数日寝込んでしまったのですが、元気になってきました。外の気温はまだ低いですが、日差しは春めいてきています。風邪もいつか治り、冬もいつか春になる、ということは本当にありがたいことだと思います。
今は、来週ワークショップで発表があるためその曲を書いています。今年度のワークショップでは自分たちで選んだ題材で作品を書き進めていて、これまでに5曲ほど書きました。今回の曲は以前に発表した曲の書き直し(rewrite)なので、曲の素材はもともとあるのですが、発表時にもらったフィードバックを反映してより深く彫り込む作業に取り組んでいます。(作品についてはまた詳しく書かせてもらいたいと思っています。)
ところで作曲の段になると、いつもながら余裕がなくなってしまうなと感じます。まるでトンネルを掘っているような気分で、少しでもスコップの入りそうな所を見つけて形振り構わず掘って行く感じです。できるだけ時々一歩下がって全体を見るようにはしてみるのですが、冷静ではないなあと感じます。掘り進む指針になるような重要な勉強は、作曲に取りかかる前の冷静な時にしておかなければと実感します。
2015年2月16日月曜日
お魚の切り身と生産性
数日前には写真のような穏やかな午後もあったのですが、今週末は寒波のため、外気は一時体感マイナス23℃まで下がってしまいました。その最中に久しぶりに風邪を引いてしまったので、どちらにしても外に出られず大人しく静養しています。
最近家に籠って作業することが多いので益々思うのですが、一日の自分の生産性というのは魚の切り身みたいだなあと思います。「中落ち」のように、少ししか取れないながら美味しい部分の時間には、勢いがないとできないような作業が捗り、ご飯を食べた後のとろーんとした時間は「血合い」のように、何をするにもあまり適していない。。どこを切ってもお刺身にできるぐらい鮮度のいい日もあれば、今日のように風邪を引いた日は料理自体出さない方がいい、というように…。
自分のスケジュールだけで動けないことが多いですが、本当はそれぞれの部位にあった料理をできれば、全体として魚を丸ごとおいしく頂けるのだろうなと思ったりします。(すみません、ちょっと支離滅裂です。。。)
2015年2月8日日曜日
散文:素敵な物たち
自分で好きな物を集めるのも良いけれど、
好きな人たちからもらった物たちに囲まれて生活するのも
とても幸せだ。
その人が自分の為に選んでくれたという喜びをいつも新たに、
生活の中にその人の存在を温かく感じる。
そうして持ち物を見渡すだけでも、
沢山の人に支えられて生きているのだなあと実感する。
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ふと部屋を見渡して、人から頂いた物がたくさんある事に気づき、しみじみとそんなことを思いました。少し前までは、頂いたものはもったいなくてなかなか使えなかったのですが、最近はありがたく丁寧に使わせてもらって一緒に年を重ねて行こう、などと思っております。寒さのためか(NYはここのところ毎週末寒波がやってきています。。)しみじみする事は多いですが、元気にやっています。
2015年1月31日土曜日
雪だるま
先日NYに到来した大寒波は、心配されていたほど大規模な打撃を与えずに通り過ぎてくれました。ただその後も雪が降り続いているので、当分は道の脇に大量の雪が残りそうです。
先日フラットアイアンビルディングの前を通りかかると沢山の雪だるまがいました。
大分とけてしまっているのもありましたが、上手に作ったもんだなあと感心しました。
と、近寄ってよくよく見てみると、なんと「石」で出来ていました。。。
帰って調べてみると、この雪だるま達はスノー・モンスターというアート・インスタレーションで、リアリティー・ハッキングというシリーズの一環なんだそうです。
そしてその意図とは
「冬のニューヨークの景色の中に、そこを通る人々の日々のルーティンを中断させて、ユーモアのある気晴らしを提供する事。(“interrupt the routine of the commuter and provide a humorous diversion within the wintry New York landscape.”)」だそうです。
すっかり、意図通りに楽しませてもらいました。
2015年1月26日月曜日
雪の日
しばらく間があいてしまいました。ご挨拶が遅れましたが、今年も折々に触れてブログを更新していきたいと思っていますので、どうかよろしくお付き合い頂ければ幸いです。
昨年は比較的暖かかったNYなのですが、1月に入って寒さが厳しくなり、そして今は大寒波が来ています。記録的なスノー・ストームになる可能性が高いらしく、今日明日のコンサートやブロードウェイのショーは軒並みキャンセルになり、普段24時間走っている地下鉄も今日は11時でストップして再開に備えるそうです。
雪がひどくなる前にと、食料の買出しに近所のスーパーに行くと、同じく買出しに来た人でずいぶん混雑していました。住み始めるまではニューヨークというと都会のイメージだったのですが、気候的には実は厳しい場所なのだなあと大寒波の度に思います。
写真は数日前に降った雪に残っていたネコの足跡ですが、この寒さの中どこかで凌げていますように。。。
雪の嵐の向こうに待っている、春の青空のことを思います。
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