2014年9月14日日曜日

英語について思う事(〜記号的〜)


作曲や編曲をしていて、楽譜に「こう演奏して欲しい」という指示を言葉で書くことがあるのですが、ほぼ記号化されているイタリア語  (Moderatoなどの発想記号やrit.やAccelなど速度記号など)以外に、もう少し具体的に書きたい時には英語で書くようにしています。

英語で書いておくと多くの人に理解してもらいやすい、ということが大きいのですが、大学院の作曲のレッスンでは、「演奏してもらう人が明らかに日本人だとわかっている場合や、日本語でしか表せないニュアンスがある場合であれば、指示を日本語(母語)で書いても良い」というアドバイスをもらったこともありました。しかしそれでもどうにも照れくさく、まだ日本語で書いた事はありません。


しかしなぜ照れくさいのだろう?と考えてみました。

思ったのですが、計算式に例えると

英語で何かを表すのは 1 + 1 = 2

であるのに対して

日本語では 「一足す一は二。」

と言葉で表すような違いがあるのではないかと思いました。


記号を使って事実を表している1+1=2に対して、「一足す一は二。」と言葉で表すとなると、他にも「一と一を足せば二になる。」や「一に一を足すと二になります。」など、言い方にバリエーションが考えられます。そうすると、どの言い方を取るにせよ、それを選んだ「自分」というパーソナルな存在がそこに見え隠れするように感じて、それで照れくさいのかなあと思いました。

それを英語と日本語にあらためて置き換えてみると、たとえば、英語で "I like cat." と言う場合には、誰が話し手であっても多くの場合 "I like cat." だと思うのですが、それを日常的な日本語で表すとすると、話し手の年齢、性別、職業、生きている時代、出身地、そして話している相手等によって「わたしはネコが好きです。」であったり「ぼくネコ好きなんだよなあ。」であったり「うちネコ好きやねん。」であったり色んな言い方があるのだと思います。

日本語にはそういう風に、人称や、敬語、方言などを含めて言葉のそれぞれのパーツにおいて様々なバリエーションがあるわけなので、そもそも何かを言葉にして表すという時点である程度個人的にならざるを得ない言語なのかなあと思います。対して英語は一般的、もしくは記号的なところがあるために、事実をそのまま伝えたり指示をシンプルに与えたりしやすく、また受け取りやすい言語でもあるのかもしれないなと思いました。


《おまけ》
おしゃれめなスーパーのサラダバーの上にディスプレイされていた紙製の立体恐竜です。顔が必要以上に怖めな気はしますが…、よくできているなあと思いました。