2016年8月25日木曜日

音で奏でる童話の世界


今日は少しコンサートのお知らせをさせてください。

ちょうど約一ヶ月後になりますが、9月27日(火)に東京の日本橋公会堂にて開かれる「音で奏でる童話の世界」というコンサートに、私も作曲家の一人として参加させて頂きます。

個性豊かな作曲家たちが新美南吉のお話に対して、それぞれの作風でアプローチしています。全ての作品がこのコンサートのために書き下ろされたもので、世界初演となります。

私は「かんざし」というお話に、ヴィオラとピアノの為の曲を書かせて頂きました。お話の登場人物は小さな女の子と池の中の魚です。ある日、池の淵から池の中を覗いていた女の子が、ふとしたひょうしに髪に刺していたかんざしを池の中に落としてしまいます。女の子は池の中の魚にかんざしを拾ってくださいとお願いするのですが…。微笑ましいお話の中に「なるほどなあ」という教訓もしっかりと含まれていて、とても好きなお話です。

残念ながら私は出席できないのですが、東京にお住いの皆様、もしお時間ありましたら是非お越しくださいませ。

<詳細>
Musitravel Vol. 7
〜新美南吉の作品の朗読と若手作曲家による新曲コラボコンサート〜

2016年9月27日(火)19:00開演
日本橋公会堂

一般 前売り 2,500円 (当日 2,800円)
学生・シニア(65歳以上) 前売り 1,500円 (当日1,800円)

チケットのご予約はこちらからお願いします。

2016年8月19日金曜日

散文:石川啄木の詩に寄せて、そして7周年


じっと手を見るとき
人は自らの存在を見つめているのだと思う

手は意思を動きへと転換し
世界に働きかける

それは鏡なしに目にする
自分の姿でもある

それ故自らの思う自分を
投影している

手とは第二の顔である

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石川啄木の一握の砂、「我を愛する歌」の中の

はたらけど
はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり
ぢっと手を見る

という詩は、初めて知った時からとても印象に残っているのですが、ふと最近手は顔なのだなあと思いました。自分の手にしても、人の手にしても、その人の有り様をとてもよく表しているように思います。それで、石川啄木も「ぢっと手を見」たのではないかと思ったりしています。

昨日でニューヨークに来て7周年を迎えることができました。毎年、終戦記念日が過ぎ、お盆の送り火が過ぎると、この日がやってきます。特別なことをするわけではありませんが、自分のこれまでとこれからを振り返り、これまでを支えてもらってきた皆さんに感謝を新たにする記念日にしています。

2016年8月9日火曜日

散文:アートの材料


「孤独」は真っ白なキャンバスであり、

「悲しみ」と「情熱」が絵の具である。

だが最終的に画家を衝き動かし、

アートを生じさせるものは、

何をおいても「憧れ」である。

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残暑お見舞い申し上げます。まだ日本では厳しい暑さが続くようですが、皆さまどうぞ夏のお疲れが出ませんよう。

近頃のNYは暑さの中にも朝晩には少しの季節の移ろいを感じます。

おかげさまでビザの件はようやく一山越えられたのですが、今回の申請準備は前回の申請の時以上に苦しい時期がありました。アーティストとはなんなのか、自分はどういう風に生きていきたいのか、そして音楽との関わり方について、今まで以上に考えるようになり、今も渦中にある思いです。

最近考えていることなどを少し書かせてもらいたいと思います。

散文に照らし合わせると、NYにいられることで立派なキャンバスを手に入れられたと思っています。人生を重ねることで、絵の具の種類も少しずつ増えてきたように思います。ただ、先の道が見えないことに、自分がどの道に進みたいのかについて迷う中で、今更ながら途方にくれることがあります。そうしてふと、いつの間にか原動力であったはずの「憧れ」を感じる余裕を無くしてしまっていたのでは、と気がつく機会がありました。

ひととき産みの苦しみから離れ、ただ一人の観客として、きらきらしたものを見て心底憧れる。そういう時間を、しばらく過ごしていなかったのかなと思いました。

音楽で十分生活できるようになりたい、というのは具体的な目標なのですが、ただそれだけでは原点を見失ってしまう可能性があることに気づきました。何かをしたい、何者かになりたい、と思った初めには、いつでも憧れがあったはずなのです。そのことを今一度思い出したいと思っています。


どうもこの頃の投稿は散文スタイルが続いてしまいってますが、また少しずつ思ったことなど書いていければと思っています。