2015年11月29日日曜日

英語について思うこと:日常会話が難しい


以前に予告させて頂いてから少し時間が経ってしまいましたが、今日から何回かに分けて、近頃英語に関して感じていることを書きたいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。

今一番興味があるのは、「日常会話が難しい」ということです。以前から漠然とそのようには感じていたのですが、先月10日間のCabaret showの遠征に行った際に、アメリカ人のアクターやスタッフと身近に過ごした日々の中で更に強く実感しました。

「日常会話」というのは、英会話においては初級の能力として扱われているイメージがあります。確かに、買い物の際にお店の人とやりとりができる、道を尋ねられる、という感じの日常会話であれば、目的もはっきりしているので、基本的な単語やフレーズを覚えることで対応できると思います。しかし、特にこれといった目的を持たない自由な「おしゃべり」もまた「日常会話」だとすると、これはまた別の話だと思います。

ちなみに「日本語圏と英語圏では言語文化が違うために日本人はアーギュメント能力が乏しい」、ということは言われていて(植田一三・妻鳥千鶴子(2004)『英語で意見を論理的に述べる技術とトレーニング』ベレ出版)、TOEFLの採点基準もそのアーギュメント能力に重きが置かれていたりして、この点は広く認識されていると思います。これに関しては参考書なども多く出ている上に、勉強することで向上しやすい能力だと思います。

ところが、実際に英語圏で生活する中で一番実感することは、やはりむしろ「おしゃべり」の難しさではないかと思うのです。この点について、果たして一般的にはどういう認識なのかさっとGoogleで検索してみたところ、
「学校で習わなかったことが沢山ある」「知らないと絶対に詰まるフレーズがある」という点や、アメリカ英語でよく使われるくだけた発音によるものだという指摘が見つかりました。

いずれも非常に興味深く納得したのですが、それでも自身の経験と実感として、それだけでは説明しきれていない部分、すなわち「コミュニケーションの根本的な考え方が違う」ということがあると感じました。(結局のところ上記の言語文化の違いということになろうかと思いますが。。。)

次回からはその具体的な内容について書いていきたいと思います。
次回はまず「笑いの方向性」について。


2015年11月24日火曜日

『若き音楽家たちの挑戦~ドキュメント第84回日本音楽コンクール』


前々回のポストでご紹介させて頂いた伊藤 優美さんが、先月本選会の行われた第84回日本音楽コンクールのクラリネット部門で入選されました。

そして、来月始めに本選出場者を追ったドキュメンタリーが放送されるのですが、その中で彼女の紹介の一部として"A Walk in the Park"のYoutubeビデオの一部を使って頂けることになりました。

彼女にはいつも大変良くして頂いていて、今回も「良い宣伝になるのでは」と敢えてビデオ使用の可能性を申し出て下さって、本当に感謝しています。

伊藤 優美さんの、そしてコンクール出場者の皆さんの軌跡を追ったドキュメンタリー、きっと素晴らしい番組になっていると思いますので、よろしければぜひご覧ください!

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『若き音楽家たちの挑戦~ドキュメント第84回日本音楽コンクール』
12/5(土)16:00より NHK Eテレにて放送。

また、Eテレでの放送に先立ち、
12/4(金)8:15からNHK総合テレビで放送される『あさイチ』のなかでも、日本音楽コンクールが紹介されるそうです。

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2015年11月16日月曜日

ポケットに5セント


少し音楽とは関係がないのですが、最近思っていることを少し書かせていただきます。

先日、いつも利用する地下鉄の駅の降り口から入った構内の片隅に、花束が置かれていました。そして壁には「ここに座っていたホームレスの女性が亡くなりました。」とその日の日付の入った張り紙がしてありました。駅構内にあるお店の人が、それらを手向けてくれた様子でした。

その日の目的地に向かいながら、いろいろなことを考えました。その人は、確かによくその場所に座っていたのです。でもお金をあげたことはありませんでした。元気そうな姿を見たこともあった気はしましたが、最近は俯いている姿を微かに覚えているのみです。

NYに来てから、街でも地下鉄でもホームレスの人をよく見かけ、そして小銭やお金を請われる場面に出会ってきました。その度にどうするべきなのか戸惑いながら、「恵むなんておこがましいのでは」「人助けするほど稼げてもいないのに」などの理由をつけて、ほとんどお金をあげたことはありませんでした。

たとえ彼女に少しの小銭をあげられていたとしても、実際のところ一食分のお金にもならなかったとは思います。ただ、そもそもそういうことではなかったのかなと思いました。もしも「誰にも省みられることがない」と感じたまま亡くなったのだったのだとしたら、悪いことをした、と心が痛みました。

社会の経済的格差が広がっている中、お金をたくさん持っている人に対して私自身「どうにかそれを社会に還元してくれないか」と感じる時があります。しかし、そう思うのであればこそ、自分も自分よりしんどい人をサポートをする気持ちを持たないと、フェアではないのではとも思いました。

そのように気持ちが決まったので、目的地につくと財布を開けて5セント硬貨を集めてポケットに入れました。これから街でホームレスの人に出会ったら、一人につき1枚ずつこの5セントを寄付していこう。と決めました。

そう思って生活してみると、前よりもホームレスの人の姿に目が止まるようになりました。実際は、人混みの中でタイミングが合わなかったり、少し危険を感じた場合などには通りすぎたりして、無理のない範囲での寄付活動ですが、俯いている人の差し出している紙カップに5セントを入れると、硬貨のぶつかるチャリーンという音に顔を上げて、少し意外そうな顔をしながら「ありがとう」と言ってくれることが多いです。

根本的な解決にはならないのはわかっていますし、きれいごとの自己満足ではあるのですが(しかもたったの5セント…)、同じ街に住むものとして「苦しいから助けてください」と公に表明している人に対して、できる範囲でサポートを示すことは、そんなに悪い事でもないのではないか、などと思いしばらくはこの活動を続けてみようと思っています。

たくさんの命が簡単に奪われてしまう、たくさんの命の関わる事柄が簡単に決められてしまう、そのような絶望的な出来事の多い昨今ですが、一つの命を全うすることは本来かくも大変で、それでいて丁寧に生かされた命は可能性に溢れている、ということを改めて思うこの頃です。

2015年11月13日金曜日

ビデオ:A Walk in the Park



CDレコーディングの際に撮影されたビデオの第4弾として、クラリネットとピアノの為の"A Walk in the Park"のビデオをご紹介させていただきます。

この曲は、今回もクラリネットを演奏してくださっている伊藤優美さんが、お互いにマネス大在学中だった頃に委嘱してくださって書いた小曲で、ありがたいことにその後も機会がある度に演奏してくださっています。

タイトルにあるParkとは具体的にセントラルパークのことで、短い曲ながら、なんとなく下記のようなストーリーをイメージして書きました。

〜小さな男の子がお天気のいい春の日に、お父さんお母さんに連れられて初めてセントラルパークにやってきました。見るもの全てが面白くて恐くて、お父さんお母さんの手を引いて、ずんずん地面を踏みしめて歩いて行きます。道中、散歩中の犬に吠えられてびっくりしたり、暗いトンネル下でミュージシャンが演奏するジャズが魅力的で少し恐かったり、それでもため池の噴水に太陽がきらきらするのを見てなんて楽しいんだろうと思ったり。そして「また来ようっと!」と思って公園を出ました。〜

お楽しみ頂ければ幸いです。

2015年11月10日火曜日

「現代音楽」と「現代の音楽」


今日は、作曲の観点から音楽のジャンルについて、少し思うところを書かせてもらいたいと思います。(今回はMusical Theatreについては含んでいません。)

「現代音楽 (Contemporary Music)」という言葉がありますが、Wikipediaによるとその意味は「現代におけるクラシック音楽の延長線上の音楽」だそうで、簡潔ながら的確な定義だと思います。

それと対比して、「現代の音楽(Music of our century)」という言葉もあり、こちらは「21世紀現在では、ポピュラー音楽でも現代音楽でもない音楽を指す言葉として使われる率が多く」なった言葉だと定義されています。

表現上は非常に似ていますが、両方の言葉が必要であったことは大変興味深いです。

私自身の曲に関しては、後者の「現代の音楽」に含まれると考えています。これまでに最も多く接してきた音楽はクラシック音楽ですが、作曲の方向性としては、過去の作曲家たちの偉大な遺産を受け継いでその地平を広げようというよりは、それらを自分というフィルターに通した時に何を好きだと思って自分の中に残っていくのか。それらを集めて自分の世界観で再構成するというような、大変個人的な活動をしているように思います。

ただ、実際のところはliving composer(存命の作曲家)として、便宜上は私も現代音楽のくくりに入れてもらうことが多く、複数の作曲家の合同コンサートに載せてもらった場合などは私の曲は浮いてしまうことが多いです。真摯に書いた曲であれば、どのような曲であれ、発表するにあたって引け目を感じる必要はないはずとも思うのですが、コンサートとしては一曲だけ若干ジャンルが違うような曲が入っていると、お客さんが何を期待して聴いていいのかわからなかったり、「あれはなんだったの?」と思ってしまうことはあると思います。

音楽は聴いてみるまでわからないということと、形がなく比較的抽象的なものであるということから、あまりはっきりとカテゴライズすることが憚られる一方、それゆえに実際はかなり違うものが大きな枠組みの中に入れられている状況はあると思います。

過去に作られた名作をそのまま再現するようなこと、または考え抜いていない作品などであれば、あえて作曲する必要もないと思いますが、しかしもし自分が心底良いと思うような作品が書けたのであれば、それを演奏してもらえる機会を見つけること、そしてそれを楽しんでもらえる人にお届けすることは、作者としての責任のようにも思います。

そのためにも、自分の作品がどういうジャンルにあたるのか、それを理解しておく事は大切なことなのでは、と最近思うようになりました。

現在私が目指しているのは「絵本」のような作品です。美術館に飾られる美術品のような「クラシック音楽」と、暮らしを彩るデザインのような「ポピュラー音楽」の間の、時々手にとって楽しんでもらえるような、「絵本」のような音楽を書いていけたらと思っています。

2015年11月5日木曜日

セントラルパークの紅葉



11月に入りましたが、ここ数日NYでは20℃前後の温かい日が続いています。長い冬が来る前の最後の温かい気候を感じるのと紅葉の見納めに、昨日は少しセントラル・パークに寄りました。

公園を通り抜けながら、同じ紅葉なのに京都の紅葉と何か雰囲気が違うのはなぜだろうと考えました。おそらくは紅葉とともに景色を為す建物の様式が違うということもありますが、京都の紅葉は山もしくは庭にあることが多いのに対して、NYでは大きな公園にあることが多いので、遠くから眺めるより中に佇む感じがあるからかなと思いました。また夜間の紅葉のライトアップというものもこちらではないように思い、こちらの人々の意識の中では紅葉はあえて名所を訪れて観るものではなく、生活圏にある街路樹や公園が紅葉しているのを季節の変化として楽しむ感じなのかなとも思いました。紅葉を素敵だと思うのは同じでも、若干捉え方が違うようなのは面白いです。


CDを手にして頂けた、聴いて頂けたというお知らせを頂き、本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。出版社に声をかけてもらった時にも、夏の録音の際にも、なかなか実感が湧かなかったのですが、反響を頂けて漸く音楽をお届けできたのだと感じて感激しております。もう一つビデオを仕上げてもらったので、また近々ご紹介させて頂ければと思います。

また、今月は最近作曲について考えていることや、英語に対して思った事などについても書いてみたいと思っていますので、お読み頂ければ幸いです。