2016年12月24日土曜日

A Very X-Men X-Mas



メリー・クリスマスです!ビデオの投稿が続いてしまい恐縮ですが、もう一つだけ、先日のコンサートから、クリスマスらしい曲をご紹介させていただきます。私の曲ではないのですが、伴奏をさせてもらいました。

この曲は「X-Menのキャラクターたちがクリスマスを過ごすとどうなるか」というアイディアのもとに作曲された楽しい曲です。対訳もつけられたらと思うのですが、ちょっとバタバタしており、いずれまた追記させて頂ければと思います(汗)

登場するキャラクターはジーン・グレイ(フェニックス)、スコット・サマーズ(サイクロプス)、ローガン(ウルヴァリン)で、それぞれの超人的能力を生かして、皆でとてもX-Menらしいクリスマスを過ごす様子が歌われています。

映画を見たことがないのですが、実際には壮絶な人生を辿っていそうなキャラクターたちが、朗らかにクリスマスをお祝いしている様子はなんとも微笑ましいです。

お楽しみいただければ幸いです。

2016年12月21日水曜日

What's A Dad To Do?


気がつけばすっかり年の瀬、師走は本当に過ぎるのが早いですね。

先日のコンサートより、もう一曲のビデオも公開されたのでご紹介させていただきます。「パパはどうしたらいいんだ?」という、クリスマスイブの夜に奮闘するお父さんの歌です。下に対訳を載せさせていただきます。擬音と韻を多用した歌なので、そこが対訳では出しきれずに残念ですが、少しでもお楽しみいただけたら幸いです。

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「パパはどうしたらいいんだ?」

パパっていうのは大変なんだよ。
絡まったレインボースプリングを直したり、
くさーいオムツを交換したり。
パパっていうのは大変なんだ。

そしてクリスマスイブには
一番大変な仕事がある。
「え、一体何なの?」
っていう声が聞こえてきそうだ。
準備じゃないよ。ラッピングでもない。
子ども達を寝かしつけることでもないんだ。
それはプレゼントを
ここからあそこへ
運ぶことなんだ。
ものすごく音を立てる床を通ってね…。

毎年恒例のクリスマスイブの戦いなんだ。
僕とこのとんでもない床とのね。
ちょっと歩けばヒューっと鳴る、
音の地雷みたいだ。
パパはどうしたらいいんだ?

毎年恒例のクリスマスイブの戦いなんだ。
聖しこの夜を守るためのね。
大またに一歩踏み出せばパチッと鳴って、
僕に心臓発作を起こさせかねない!
賢明なパパはどうしたらいいんだ?

ああ、頭上に漂うこの恐怖。
床が音を立てるんじゃないかと
心配で仕方がないんだ。
でも、ああ、この至福。
すやすや眠る天使たちのところへ
忍び込んでいくことを思えば!

毎年恒例のクリスマスイブの戦いなんだ。
牛の群れみたいな音を立てないようにね!
でも床はうめくし、
キュッキュと鳴るし、
ギーギー唸るし、
キーキー軋むし。
間違いない、
モーいつかやらかしちゃうに決まってるんだ!!
賢明で繊細なパパはどうしたらいいんだ?

あわてて、小走り、
飛び越え、急いで、
ぴくぴく、よたよた、
縫って進む!
それこそが、
賢明で繊細なサンタパパが
毎年クリスマスイブにやらなきゃいけないことなんだ!

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2016年12月13日火曜日

The Shortest Day of the Year




先日のキャバレーで発表した曲のvideoをYoutubeにアップしてもらえたので、ご紹介させていただきます。

この曲は「一年で一番短い日」というタイトルで、クリスマスそのものというより、冬という季節を祝う曲になりました。

もともとは、遠距離恋愛中の恋人同士が、会うことが叶わずそれぞれに過ごすクリスマスの日に「それでも今日は一年で一番短い日だから」と、会える日を待ち焦がれている。という歌になるはずだったのですが、諸事情あって歌詞が間に合わず…。どうなることかと思ったのですが、コンサート企画者の提案もあって、今回はヴァイオリンとピアノのインスト・バージョンで発表させてもらえました。

自分の伴奏に関しては様々に反省するところですが…、素敵にバイオリンを弾いてもらえて、お客さんにも温かく受け入れて頂けたので嬉しかったです。

2016年12月8日木曜日

ホリデー・シーズン



一昨日 "Contemporary Christmas"のコンサートが無事に終了しました。一足先にクリスマスをお祝いするようなコンサートだったにも関わらず、結局本番が終わるまでは落ち着かず、今日あたりになってようやくじんわりとホリデー・シーズンの始まりを実感する事ができました。

コンサートのビデオがもうすぐオンライン見られるようになるそうなので、また近々こちらでご紹介させて頂きたいと思っています。

写真は久しぶりに立ち寄ったマグノリア・ベーカリーのクリスマス・ツリーです。なんともほっこりした雰囲気が漂っていてここのツリーは特に好きです。


2016年11月29日火曜日

Contemporary Christmas



またまたお久しぶりになってしまいました。日々の生活の中で思うことなど浮かんでは、ブログに書こう!と思って帰ってくるのですが、目の前のやることリストの消化に追われてしまっているこの頃です。

写真は今日通りがかったNY市立図書館前の風景です。リースをかけてもらってクリスマス仕様のライオンは、しとしと雨の中さらに思慮深く見えました。

現在は来月初旬にある"Contemporary Christmas" というクリスマス・コンサート(キャバレー)の準備に取り組んでいます。こちらはBMIワークショップの同級生が立ち上げてくれた企画で、私も2曲出品させてもらっています。コンサートのコンセプトとして、「今も定番となっている多くのクリスマス・ソングはかつてミュージカル・シアターの作家によって作曲されたのだから、その伝統をとりもどそう!」という大きな目標のもとに、皆で新曲を書き下ろしました。

今回は自分で伴奏するので、ピアノパートに関しては融通がきく部分も大きいですが、演奏に関しては本番が終わるまで落ち着かず、楽しみながらもそわそわしています。ビデオも撮ってもらえる予定なので、いずれぜひこちらでもご紹介させてもらいたいと思っています。

2016年11月10日木曜日

ビザのご報告と大統領選について


大変長らくご無沙汰してしまいました。

先日、ついにビザの認可を頂くことができました。それを受けて急遽一時帰国し、面接を受け、無事にビザを発行してもらって一昨日NYに戻りました。色々のことが立て込んでしまい、お会いしたかった皆様にはご挨拶もままならないまま戻ってきてしまいましたが、またの帰国の際にはぜひお会い頂けたら幸いです。

昨日は思いもしなかった形で大統領選の結果が出て、未だどのように受け止めれば良いのか、悶々とした気持ちで過ごしています。今回のアメリカ大統領選に限らず、最近政治の展開において、明らかな「正論」のオプションがあるのに、「それはないだろう」という方に結果が決まってしまうことが多く感じ、困惑と不安を覚えます。

今回のビザを得るにあたっては、準備の段階で挫けそうになることが度々あり、多くの人に助けてもらいました。ビザが取得できたら、その人たちに少しずつでも恩返しをしたいという思いでNYに戻りましたが、この大統領選の結果を受けて世界が急激に変わっていく可能性を感じ、あらためて自分の思惑だけでは生きられないことを痛感しています。

それでもやはり、自分がやるべきことをやっていくしかないなとも決意しています。世界の動向を努めて注視しつつ、黙々と進んでいきたいと思います。

2016年9月15日木曜日

雑感:創造について


実物そっくりの、恐竜のパペットを作っている会社の紹介クリップを見た。夜中に作業場に入ったら、動き出しそうだ。いや、動いている様子を見るともう本物にしか見えない。森で見たら間違いなく本物だと思うだろう。もちろん作った人は、骨格、筋肉や皮膚に当たる部分が何でできているのか知っていて、何を動力にどうやって動いているかも知っている。けれど、それでも自分が作ったものが恐ろしくなることってないのだろうか?

それとは別に、粘土でリアルな人の像を作る芸術家の紹介クリップを見たときにも思った。はじめはあきらかに粘土の塊なのだけれど、どんどん形作られて、完成間際の少女の唇を整えている時なんか本当の人間に触れているかのようだった。

明らかな無機物に命が宿ったのではないかと思うところまで行ったら、それこそ芸術の真骨頂だろうけれど、それは神にも近づく行為というか、少し恐ろしいぐらいのことなのかもしれないな。

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雑感が続きます。。最近はSNSの広がりのおかげで、世界の色々な人々や新たなアイディアに触れる機会も増えたように思います。上記の雑感も、そんなふうに最近見た二つのクリップから来ています。

音楽に関しては、自然にあるものを描写するというより、自然から抽出したものを組み合わせて並べ、人が聴いてどのように感じるのかを追求する営みだと思っているので、目指すところが上記の芸術とは異なる気がしますが、だからこそ益々そういうものにも憧れるというか畏れの念をも感じます。

2016年9月14日水曜日

雑感:ファーストフード店にて


ファーストフード店は、「とりあえず幸せ」な人たちで満ちている。

本当はもっと他に食べたいものがあるのかもしれない。けれど、ひとまず割と安価なメニューの中で、自分の食べたいものを選んで、飲み物やハンバーガー、ポテトを前にして、好きなようにケチャップをかけて黙々と食べている姿は、「とりあえず幸せ」そうに見える。

それは深い意味での幸せではないかもしれないが、そうやってとりあえず自分を幸せにすることもまた、大切な事だと思うのだ。そして、そういうことが可能な場所は社会に必要だと思う。

もちろん、体にいい食べ物や習慣が拡がった方がいい。より良い経営方針のお店が残った方がいい。けれど、高いものだけ、良いものだけでは、万人をすくいきれない状況があると思うのだ。

世の中には完璧でないものもあっていい。むしろそういうものに助けられてこそ、なんとか回っているのじゃないかと、そんなことを思った。

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ピアノティーチングの合間に空き時間ができてしまった際に、立ち寄るファーストフード店があるのですが、先日ポテトをつまみながらお店を見渡して持った雑感です。

わりとローカルなファーストフード店なので、すごく混んでいるということもなく、お店の人たちもリラックスしていて、お客さんも気ままに食事しているので、その中でぼんやりとそんなことを考えました。

2016年9月5日月曜日

散文:水と命


コップにたっぷり注いだ水はいつまでも
そこに湛えられていると思ってしまう

本当は今その瞬間にも少しずつ蒸発している
水というものは、この地に永遠に留まることはできない

命もまたそうなのかもしれない
どんなに元気な魂もいずれは天に帰る

けれどそれは消えてしまったわけではない
水が水蒸気に姿を変えて大気に漂っているように
きっと少し違った形になってそこにある

そして空から雨が降ってくるように
命もまた、いつかこの地に帰ってくる

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台風の被害の報に心を痛めています。これ以上被害が広がらないことを願っています。

今日の散文は、ニュースなどで訃報に触れるたびに感じていたことと、洗濯をしながら思ったことがリンクして持った感想です。

ある時、出かける直前で時間がなくて、洗濯をした後の乾燥機を普段より少し短めの時間で回したところ、やはり生乾きになってしまったのです。急いでいるのに中途半端なことをしてしまった。。と焦りながら、しんなりした洗濯物を部屋中に広げていたのですが、でもこの洗濯物もいつかは乾くのだよな。と思いました。逆に、自然にしておいて水を引き止めておくことはできないのだ。と思いました。

訃報に触れるたびに、自分の中でその人の存在をこの地から彼の地に送る作業をする思いです。行くものを引きとどめておくことはできない。でも、消えてしまったわけではない。そう思うことが救いになるように思っています。

2016年8月25日木曜日

音で奏でる童話の世界


今日は少しコンサートのお知らせをさせてください。

ちょうど約一ヶ月後になりますが、9月27日(火)に東京の日本橋公会堂にて開かれる「音で奏でる童話の世界」というコンサートに、私も作曲家の一人として参加させて頂きます。

個性豊かな作曲家たちが新美南吉のお話に対して、それぞれの作風でアプローチしています。全ての作品がこのコンサートのために書き下ろされたもので、世界初演となります。

私は「かんざし」というお話に、ヴィオラとピアノの為の曲を書かせて頂きました。お話の登場人物は小さな女の子と池の中の魚です。ある日、池の淵から池の中を覗いていた女の子が、ふとしたひょうしに髪に刺していたかんざしを池の中に落としてしまいます。女の子は池の中の魚にかんざしを拾ってくださいとお願いするのですが…。微笑ましいお話の中に「なるほどなあ」という教訓もしっかりと含まれていて、とても好きなお話です。

残念ながら私は出席できないのですが、東京にお住いの皆様、もしお時間ありましたら是非お越しくださいませ。

<詳細>
Musitravel Vol. 7
〜新美南吉の作品の朗読と若手作曲家による新曲コラボコンサート〜

2016年9月27日(火)19:00開演
日本橋公会堂

一般 前売り 2,500円 (当日 2,800円)
学生・シニア(65歳以上) 前売り 1,500円 (当日1,800円)

チケットのご予約はこちらからお願いします。

2016年8月19日金曜日

散文:石川啄木の詩に寄せて、そして7周年


じっと手を見るとき
人は自らの存在を見つめているのだと思う

手は意思を動きへと転換し
世界に働きかける

それは鏡なしに目にする
自分の姿でもある

それ故自らの思う自分を
投影している

手とは第二の顔である

*******
石川啄木の一握の砂、「我を愛する歌」の中の

はたらけど
はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり
ぢっと手を見る

という詩は、初めて知った時からとても印象に残っているのですが、ふと最近手は顔なのだなあと思いました。自分の手にしても、人の手にしても、その人の有り様をとてもよく表しているように思います。それで、石川啄木も「ぢっと手を見」たのではないかと思ったりしています。

昨日でニューヨークに来て7周年を迎えることができました。毎年、終戦記念日が過ぎ、お盆の送り火が過ぎると、この日がやってきます。特別なことをするわけではありませんが、自分のこれまでとこれからを振り返り、これまでを支えてもらってきた皆さんに感謝を新たにする記念日にしています。

2016年8月9日火曜日

散文:アートの材料


「孤独」は真っ白なキャンバスであり、

「悲しみ」と「情熱」が絵の具である。

だが最終的に画家を衝き動かし、

アートを生じさせるものは、

何をおいても「憧れ」である。

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残暑お見舞い申し上げます。まだ日本では厳しい暑さが続くようですが、皆さまどうぞ夏のお疲れが出ませんよう。

近頃のNYは暑さの中にも朝晩には少しの季節の移ろいを感じます。

おかげさまでビザの件はようやく一山越えられたのですが、今回の申請準備は前回の申請の時以上に苦しい時期がありました。アーティストとはなんなのか、自分はどういう風に生きていきたいのか、そして音楽との関わり方について、今まで以上に考えるようになり、今も渦中にある思いです。

最近考えていることなどを少し書かせてもらいたいと思います。

散文に照らし合わせると、NYにいられることで立派なキャンバスを手に入れられたと思っています。人生を重ねることで、絵の具の種類も少しずつ増えてきたように思います。ただ、先の道が見えないことに、自分がどの道に進みたいのかについて迷う中で、今更ながら途方にくれることがあります。そうしてふと、いつの間にか原動力であったはずの「憧れ」を感じる余裕を無くしてしまっていたのでは、と気がつく機会がありました。

ひととき産みの苦しみから離れ、ただ一人の観客として、きらきらしたものを見て心底憧れる。そういう時間を、しばらく過ごしていなかったのかなと思いました。

音楽で十分生活できるようになりたい、というのは具体的な目標なのですが、ただそれだけでは原点を見失ってしまう可能性があることに気づきました。何かをしたい、何者かになりたい、と思った初めには、いつでも憧れがあったはずなのです。そのことを今一度思い出したいと思っています。


どうもこの頃の投稿は散文スタイルが続いてしまいってますが、また少しずつ思ったことなど書いていければと思っています。

2016年7月25日月曜日

散文:演奏について


奏者自身が、その瞬間演奏している音楽に聴き入る
ということはあると思う

そんな時は、演奏するという聴き方をしていると言った方が近いのかもしれない
役者が役を演じながら、同時にその人物の心情に深く感じ入っているかのように

弾き終わっても、まだ心の中にはそこはかとない感情が流れていて
奏者はお辞儀も忘れ、観客は拍手も忘れ
その気持ちにまだ浸っていたいと思いながら
静かに普通の時間が戻って来る

それまでの刹那のことを余韻と言うのだろう

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すっかりブログの更新も滞ってしまい、いろいろと皆様へのご連絡も失礼しております(すみません)。。。ビザの準備のことなどに追われておりましたが、ようやくもう一息!というところに近づいて参りました。

今年も夏の間だけ教会でオルガニストのサブをさせてもらっているのですが、今日教会でピアノを弾いていた時に思った取り留めもない感想を書き留めておきたく、散文にしました。

教会のサービスの中では進行に沿って度々BGMを弾く機会があり、だいたいゆったりとしたテンポのシンプルな曲を弾くことが多いのですが、技術的にそこまで難しくない曲を、皆も聴いているような聴いていないようなリラックスした環境の中で弾くと、かえってとても演奏に気持ちがこもるようなところがあります(当たり前でしょうか。。)。特に今日はサービスが終わってから「あの曲よかったよ。」と声をかけてもらえたので嬉しかったです。

張り詰めた本番を常にこなす、第一線で活躍する演奏家の感覚に憧れの思いも馳せながら、ふと浮かんだ感想でした。

2016年7月1日金曜日

散文:アイスティー


甘ったるいアイスティーほど寄り掛かれないものはない。
きりっとしていて、氷もたっぷり入っているから
たくさん飲んでも良い気がしたのに。
甘いなんて聞いていないよ。
今お砂糖は欲しくないんだ。
こんな暑い日の
甘ったるいアイスティーほど寄り掛かれないものはない。

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今回はもはや散文というか単なる感想になってしまいました…。今日ピアノ・ティーティングの間に空き時間ができてしまったので、ファーストフード店でアイスティーを頼んだのですが、一番小さいサイズでもスタバでいうところのグランデサイズしかないと言われ、じゃあそれでいいですと言っている間に、ガムシロップは入れないで下さいというのをすっかり忘れていました。すごく甘いのに、気持ちはほろ苦かったです。。

6月はなにやら落ち着かぬ間に過ぎて行ってしまった思いです。ビザのことももうあと一息というところで、変わらずバタバタと過ごしておりますが、なんとか7月には一区切りつけるべくやりきりたいと思っています。

2016年6月14日火曜日

6月の夕暮れ




6月になり、BMIワークショップも今年度の終わりを迎え、昨日は全クラスの終了をお祝いする小さなレセプションがありました。Advanced Classに進んでの一年目が無事終了したのだなあと、ほっと嬉しい気持ちで良い時間を過ごせました。レセプションを後にすると、街はまだ暮れきってはおらず、その中に浮かび上がる街灯が何か素敵で、行ったこともないながら少しパリっぽいなと思いました。心地よい風の吹く夜でした。

2016年6月10日金曜日

散文:ほっ


食べたことがあって味を知っているお菓子でも、また食べたい
きっと喜んでくれるだろうとわかっていても、実際に喜んでくれる顔を見たい

自分を嬉しくさせてくれる経験は
一度あればそれで十分というわけでも
そうなるとわかっていれば十分というわけでもなく
時々どうしても確かめたくなる時がある

「ああ、やっぱり美味しいなあ。」
「喜んでくれてよかった!」
そうして、ちょっとほっとしたい
その「ほっ」が明日を生きる力になるようで

もうどうしても手に入らない時はきっと来てしまうけれど
その時までに集めた「ほっ」が優しく佇んでいてくれると良い

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まだビザの手続きに取り組んでおりまして、なかなかばたばたと、するすると時間が経ってしまいます(汗)

散文続きになってしまいますが、最近少し思ったことを書き留めておきたいと思いました。

このブログで始めた散文は、最近は何か思うことがあってそれを表現したいと思った時に、唯一すぐにアクセスできる方法だなと感じるようになりました。何かしらまとまった作品を作るとなると題材を定めて色々調べ物をしたり、構成を組み立てては分解し組み直す、というダイナミックな作業が必要だと思うのですが、詩に関しては新たに何かを入力して出力するというより、何か「はっ」と思うことがあった時に、それまでに培った人生観の中から言葉を取り出すという感じがして、直感的に形にすることができるところが好きです。

2016年5月24日火曜日

散文:たくさんの世界


時々旅をしたくなるのは
知らない景色の中に佇み
新たに沸き起こる感覚を味わいたいから

しかし、そのために遠くへ行く必要はないのかもしれない

今まで通ったことのない路地に足を踏み入れ
前を通り過ぎるだけだった建物に入れば
そこはきっともう別世界

そこに生きる人々と生活圏を共有していたにも関わらず
これ程身近に自分の知らない世界が息づいていることに
気がつかなかった

そういう風にして無数の世界が
位相を異にするようにひっそりと
共存しているのだと思う

この世界の中に
どれだけ多くの世界を知ることができるだろうか

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以前あるミュージカルの稽古に参加していたときに、稽古の進行を待つ間、ふと役者さんの持つ小道具を見つめていて持った雑感です。その小道具は舞台用に作られたものではなく、伝統的な手法で作られるもので、その道具そのものを舞台でも使用していたのですが、ふとそれを作っているのはどんな人で、どんな場所で作っているのだろう、そこではどんな日常が流れているのだろう。と一気に想像が膨らんだのでした。

アメリカに住むようになってから、日本とアメリカという大きく環境の違う二つの世界を比べて見ることが多くなりましたが、実のところは日本にせよアメリカにせよ、知っている世界というのはごく限られた範囲に過ぎず、生活圏の中にすら知らない世界がいっぱいあるのだろうなと思いました。

2016年5月16日月曜日

五月




五月も中旬になって、NYもようやく安定して気持ちの良い気候になりました。
今年は秋にビザの更新を控えているため、近頃はその準備もあってなかなか落ち着かない日々を過ごしています。日々書きたいことはちょこちょこと溜まっていくのですが、また落ち着いた頃に一つずつ書いてゆきたいと思っています。

2016年4月29日金曜日

散文:やさしい空似


多かれ少なかれ

新しく出会った人々の中に、
街で見かけた人々の中に、
親しい人の面影を見ることがある。

そっくりでないからこそいい。
ほんの少し存在を身近に感じられるぐらいが丁度良い。

そうやって一緒に生きて行く。

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初対面の人から「知人に似ている」と言われることがよくあるのですが、最近は自分も人に対して、「あの人に似ているなあ」と思うことがあります。その人に会うたびに、似ているもう一人の方の人にも会えたような気がして、じんわりと温かい気持ちになります。他人の空似とはやさしい現象だなと思います。

2016年4月26日火曜日

地下鉄にて


先日地下鉄の中で、心温まる場面に出会いました。

私は本を読んでいたのですが、左の方の席には乳母車に乗せた男の子を連れた若いお母さんが座っていました。お母さんは、はじめは笑顔で男の子をあやしていたのですが、ふと気がつくと何か大声で言い聞かせているようでした。一生懸命そうなのですが、どうも思うようにならず焦っているようにも見えました。

次の駅で、今度は和やかな家族が乗ってきて私の前の席に座りました。お母さんとお父さん、そして幼稚園と小学校くらいの年齢の二人の女の子です。お母さんはいわゆる肝っ玉母さんという感じで安心感があり、子どもたちは朗らかで、そしてお父さんは穏やかでした。

左のほうのお母さんは、その後ますます男の子を持て余してしまったようで、しばらくすると再び大きな声が聞こえました。すると、前に座っているお母さんが少し間を置いてから、その若いお母さんに向かって穏やかに「神様のご加護がありますように。素敵なお子さんね!」と声をかけたのです。

若いお母さんの方を見ると、本当に嬉しそうな、誇らしそうな顔をしていました。がんばっていて、でも思うようにならなくて、そんな時にかけてもらったその一言がとても響いたように見受けられました。

すると前に座っていた小さい方の女の子がすかさず「その子はまだ赤ちゃんだからね。私なんてもう4歳なんだから。4歳なんだから、4歳なんだから、4歳なんだから!(本当に4回言っていました)」と言ってさらに和みました。

お母さん「ほら、この子ったらやきもち焼いちゃってるのよ(笑)」
    「(女の子に向かって)彼、かわいいねえ。」
女の子「かわいいねえ。」

そして次の駅で、再び若いお母さんと男の子のほうに向かって「バイバイ、かわい子ちゃん。お母さん、気をつけてね。」と声をかけて、お母さんとその一家は降りて行きました。

色々と感じ入る出来事でした。

2016年4月22日金曜日

"Cape Roca" Video


昨年出版されたCDに収録されている、チェロとピアノのための"Cape Roca"のビデオが、I CARE IF YOU LISTENというニュー・ミュージック専門のブログに取り上げてもらえました。

取り上げてもらったのはビデオ部門なのですが、そこではオンライン上で見つけた質の良いニュー・ミュージックのビデオを集積していくことが目標らしく、選んでもらって嬉しいです。

以前にもご紹介させていただいたビデオですが、もし良ければまたご視聴いただけたら幸いです。

2016年4月19日火曜日

予備投票



昨日は穏やかな良い春の日で、ビル街の中の公園でも人々のゆったりした雰囲気が感じられました。そして今日はニューヨーク州で大統領選に向けた予備投票が行われています。「投票した」という知人の声をよく聞きました。

2016年4月16日土曜日

願い


次々入る地震のニュースに心が痛みます。

どうか被害がこれ以上広がらず、
被害を受けた皆さんの生活に1日でもはやく
安心が戻るようにと願っています。

2016年4月13日水曜日

キアヌ



四月の初め頃から、地下鉄のホームにこのハンサムな猫のポスターが登場し、初めて見た時には思わず二度見してしまいました。




「キアヌ」という映画のポスターで、検索してみたところ、そのかわいさのために誘拐されてしまった子猫キアヌを取り戻すため、主演の2人が麻薬のディーラーに扮して麻薬組織に潜入するというコメディー映画のようです。




こちらは別バージョンのポスター。


コメディーとはいえ、麻薬組織やディーラーといった世界を描くため荒っぽい表現も多そうで、残念ながらファミリー向けの映画ではないかもしれませんが、その発想とポスターのセンスにはやられたなあという感じです。

チューリップ




一時すっかり春になったと思ったのですが、その後またしばらく寒さが戻り、毎日どういう服装で出かければいいか迷う四月のニューヨークです。昨日もしとしとと小雨が降り、「そろそろ大丈夫かなあ…」と咲きそうな街頭のチューリップが健気でした。

2016年3月31日木曜日

散文:霧の山


ぱっと見て解法が思いつかない問題、取り組んだことのない仕事に取り掛かるのは、きっと中腹から上に霧のかかった山に登るようなもの。

上の方がどうなっているのか、どんなに険しく、どんなに高いのかが見渡せないから、登るのに尻込みしてしまう。そしてその不安はどんなに下調べしたところで解消できない。山の高さや地形がわかっていても、自分の体力と技術で登り果せるかどうかは実際に登ってみるまでわからないから。

だからこそ、そういう課題に取り組むときは気持ちのデフォルトを「まあ、なんとかなるでしょう。」にしておく。そうすると「そう?じゃあ、登ってみるか。」という気になる。

実際のところは何の保証もないのだから、少し自分を騙すようなものだけど、そうして登ってみて実際に難題に直面したところで、もうその段階ではなんとか解決して前に進むしかない。だから結局は登りきれる。

そしたら「ほらね、登れたでしょ。」「確かに。」ということで、自分もなんとなく納得。それが少し難しい課題に取り組むコツのように思います。(実際の山は、お天気が悪い時には登ってはいけないと思います。)

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この間Tedtalksでのトークをご紹介させて頂いたTim Urbanさんも、ブログの記事で「何事もとりかかるのが一番難しい。」と書かれているのですが、なぜそうなのか、どうすれば少しでも早く自分を課題に取り掛からせることができるのか。先日急ぎで楽譜を作る仕事を頂いたので、まさにそんなことを考えながら取り組んでいました。そして今の所、私にとってはこの考えが一番ピンと来るかなと思っています。

2016年3月29日火曜日

散文:春の日




春の暖かい空気に落ち着かないのは、
快適すぎて、優しすぎて、
ひょっとして浄土の空気もこうなんじゃないかと思うから。

寒かったり、暑かったり、
抗わないと負けてしまいそうな厳しい気候の中では
生きている実感を持ちやすい。

それがふっと優しくなった時、
ほんとにこの世のことだろうかと不安になるのかもしれない。
そんな春の日。

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毎年春にはこんなことを感じ、そんな散文を書いてしまっている気がします。そういう季節もあっという間にすぎてしまうのですが、特に暖かい空気の中に雨の気配を感じる時が好きです。

2016年3月17日木曜日

"procrastinator" (後回しにする人)


英語にあって日本語にぴったりの訳語がないものに、"procrastinator"という言葉があります。"procrastinate"が「後回しにする」という意味なので、「後回しにする人」ということになるのですが、この言葉の持つ独特の「私それなんだよね。やっちゃうんだよね。」といったニュアンスがうまく出ずに残念です。

その「後回しにする人」がなぜ後回しにしてしまうのかについて、とても面白く、かつ見事にそのメカニズムを説明したTed Talksがあったのでご紹介したいと思います。まだ日本語の字幕がついていないので、そのままお楽しみいただけないのが残念ですが、概要をかいつまんで説明させてもらいたいと思います。

話し手はTim Urbanさんで、自身の「後回し」にしてしまう傾向に向き合い続け、経験とその分析から導き出した理論をブログで発表したところ、多方面から共感が寄せられたそうです。


彼の理論によると、後回しにしてしまう人とそうで無い人の頭の中は若干違うそうです。どちらにも頭の中に「理性的な判断をする者」がいて、人生の舵を切ろうとするのは同じなのですが、後回しにしてしまう人の頭の中には彼に加えて「すぐに楽をしたがるお猿」も住んでいるそうで、仕事に取り掛かろうとすると、そのお猿が船の舵を奪って現実逃避へと向かわせてしまうのだそうです。「理性的な判断をする者」は理性的な判断をするのは得意なのですが、お猿を止める術は知らないので、唖然としながら状況が悪くなっていくのを見守ることしかできません。そしていよいよ仕事の締め切りが間近に迫ったところで、もう一人のキャラクターが登場します。「パニック・モンスター」と呼ばれるこのキャラクターは、登場するなり文字通りパニックを起こします。すると、後の二人もつられてパニックになり、お猿の方は木の上へと一目散に逃げてしまいます。そうしてようやく「理性的な判断をする者」が舵を取り戻すことができ、なんとか無理を重ねて締め切りに間に合わせる。ということが起こっているそうです。

しかし、ブログに寄せられる感想を読む中で、「後回し」という現象もさらに2種類に分かれることがわかったそうです。一つは上記の状態なのですが、もう一つは締め切りのない目標に対する「後回し」だそうです。締め切りがないということは、「パニック・モンスター」が登場しないので、結局達成されることがなく、より後悔が深いそうです。

そして、 Urbanさんは締めくくりに、スクリーンに小さな四角がびっしりと並んだ図を見せてくれます。一つの四角が1週間を表し、90年分のそれを一つの画面の中に並べたものだそうです。確かに一つ一つの四角は小さいですが、全部を見渡すとそれほど多くもありません。そして、実際はもうそのうちのかなりの量を使ってしまっているので、これを見たらやろうと思って後回しにしていることを、そろそろやらねばという気にもなりますよね!ということでtalkが終わります。

誰もが経験のあることを、面白おかしく、かつ的を得たキャラクターに置き換えて、よくぞここまで明快に解明してくれたなあと思います。彼のブログを見ると、さらに詳しく説明されているので、よろしければぜひチェックしてみてください。

私なりに思ったことですが、「後回し」や「現実逃避」の結果、時に役に立つ雑学が身につくこともある(このtalkも現実逃避の中で見つけたものなので。。。)と思うと、完全に無駄なことはないかもしれないなとは思いたいのですが、目標に向かって進んで行くためには、やはり可能な限りお猿に舵を取らせないようにせねばと思います。。

2016年3月15日火曜日

ショートショート:西方見聞録(近代編・前)


「わあ、あなたずいぶん『徳ポイント』貯まってますねえ。どうされます?」

「とくポイント?」

「徳の高い行いをした時に貯まるポイントのことですよ。徳のポイントだから『徳ポイント』。」

「はあ…。いやでも僕、そんな徳の高い行いなんてしたことないと思うんですけど。」

「いやそこがミソでね。本人には殆ど自覚がないもんなんですよ。」

「はあ。」

「それに別に徳が高い行いっていうのは、大それたことに限らないんですよ。たとえば自分より疲れてそうだなって人に電車で席を譲るのだって、立派に徳ポイントになります。」

「へえ。」

「意外だったみたいですね。でもあなたも思いませんでしたか?人に思いがけず親切にしてもらったりしたら『この人に徳ポイント100ポイントっ!』って。」

「え、いや、そういうポイントがあるって知らなかったもので…。でも、『なんていい人なんだろう、この人に幸あれ』とは思いました。あっ。」

「そう、それなんですよ。その瞬間、こちらで管理している徳ポイントカードにポイントが貯まるって仕組みです。」

「へええ。」

「もともとね、そちらの世界では理不尽なことが多いじゃないですか。良い人が必ずしも報われるわけじゃないし、良いことをしても感謝さえされないこともある。」

「そうですね。」

「でもそれじゃあんまりじゃないか。せめてこちらでは全てちゃんと見ていて、徳の高い行いについては逐一ポイントとして本人に代わって貯めておいてあげよう、とまあそういうことで始まった制度なんです。」

「なんだか優しいですね。」

「で、どうされます?」

「どう、と言いますと?」

「何と交換されます?」

「あ、そうか。ほんとに普通のポイント制と同じなんですね。」

「そうですよ。」

「何と交換できるんですか?」

「それも実はあなた次第なんですけどね。たとえば、何か心残りなことってあります?」

「えっ。」

「いや、そりゃもちろんあると思うんですよ、色々とね。ただ、あなたはこちら側に来てしまったわけですから、基本的にはもう向こうの世界に対して働きかけられないわけです。」

「ええ…、それは心得ています。」

「でもね、なんせあなたには徳ポイントが貯まっていますから、もしどうしてもこれだけはと思うことがあれば、ポイント次第で可能な場合があるんです。」

「本当にっ?」

「ええ。ちなみに最も多いリクエストは『家族や友人の幸せ』ですね。」

「はいっ!」

「いや、ただなんせポイント制なんで、実際そこまでざっくりとはいかないんですよ。ちょっとお手間かけちゃうんですけど、一個一個事例を選んでもらわなくちゃいけなくて。」

「はあ…。」

「つまりですね。例えばあなた、そちらの世界にいた時にご自身でも体験されたことありませんでした?ものすごいピンチになった時になぜか切り抜けられた事とか、すごく悩んでいた時にまるで導きのような出来事があったり。」

「ええ、何度もありました。」

「それ、実は誰かの徳ポイントだったんですよ。」

「ええっ!?」

「あなたの親しい人たちがこちらに来て同じようにポイントを交換した時に、あなたのために使うことを選んだんです。まあそちらの世界においては、それらの現象はただ単に『奇跡』として理解されてたかと思いますが。」

「そ、そうだったんですか…!?」

「ええ。ちなみに徳ポイントを使ってもらった本人にもその半分のポイントが溜まるんですけどね。ポイントを使ってもらうぐらい日頃の行いが良かったで賞ということで。」

「…。」

「オホンっ!ともかくですね、こちらに全ての人の人生を記した閻魔帳がありますから、あなたが徳ポイントを使いたいと思う人の名前を挙げてくれれば、その人の人生をざっと見渡すことができます。そしてその中で起こるどのピンチに対してポイントを使いたいか言ってもらえれば、こちらで出来る限りのことをしたいと思います。どうですか?」

「ぜひお願いしますっ!それではまず…」

…かくして無事に徳ポイントの交換を終えた僕は、次の体重検査場へと向かうことになった(何をするのかは見当もつかないが、まあまた機会があれば誰かに聞いてみることにしよう)。

それにしても『徳ポイント』。そんな制度があったなんて驚きだった。僕が知らない間に貯まっていたポイントで、残してきた皆のためにまだできることがあったなんて本当にありがたい。そして今までは知らなかったけれど、そうやって先に行った親しい人たちが僕の人生をこんな風に支えてくれていたんだと知って胸が熱くなった。この先、彼らとこちらの世界でも再会できると良いのだが。

さて、まずは次の体重検査場に向かうとするか!

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少しアイデアが貯まったので、以前に書いたショートショートの前編を書いてみました。実際のところどうなっているかはもちろんわからないのですが、徳ポイントについては前々からそういう制度があったらいいのになと思っていまして、また徳が高いなと思う人については「あの人相当貯まっているだろうな」と思ったりしています。

2016年3月13日日曜日

「この世は舞台、人はみな役者」



”All the world's a stage
And all the men and women merely players."

シェイクスピアの『お気に召すまま』からのセリフで、その考え方は世界劇場(Theatrum Mundi)と呼ばれる思想だそうなのですが、いつからかとても好きなセリフです。

人生が舞台だと考えると色々なことが当てはまるなと想像が膨らんでしまうのですが、今特に思うのは、もしも先に舞台を降りた親しい人たちが、今は客席からこちらを観ていてくれるのだと考えると、その人たちに伝えるためにも、大切なことは思っているだけではいけないなということです。

残された人々がよりよく生きられるよう努力していくこと、そして先に行った人々への想いもまた常に携えていること。その両方を、この世界で行動し、誰かに伝えていくことがひいては客席の皆さんに伝える方法でもあるのでは、と思えてしまうのです。

3月11日の日に思いを新たにしたことでした。

2016年3月7日月曜日

散文:コーヒーブレイク


体の大きな男の人が、大事そうに小さなコーヒーカップを手のひらに抱えていた。
コーヒー、それは人生の様々の達成に比べればいかにも儚いもの。
淹れられ、飲み干され、また淹れられる。
それでいて、その一杯を欲するどんな人をも励まし、癒す。
手のひらに抱えたくなるぐらい大切なもの。
そういう小さな存在に助けられ、また世界へと立ち向かって行く。

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先日少し大きなコンサートの裏方のお手伝いで、軽食の用意された休憩所の管理をしていたのですが、その際もやはりコーヒーが人気でした。ペットボトルのお茶も、お湯もあったのですが、やはりコーヒーの減りが一番早く、たいしたもんだなと思いました。

寒さの続いたニューヨークも、今日あたりからようやく少し暖かくなってくるようで、春が待ち遠しいです。

2016年3月3日木曜日

散文:今という時間


誰かの見られなかった未来、
将来の自分が戻りたいと思うような過去、
今とはそういう時間でもある。

そういうつもりで毎日を生きる。

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大変ご無沙汰しています。年明けから少々ばたばたとしていて、更新が随分久しぶりになってしまいました。

比較的暖かい今年のNYの冬ですが、今日の外気は日中まだ2℃くらい、無防備な格好でゴミ出しに外に出ると少々機嫌が悪くなるぐらいの寒さです。

これからまたぼちぼちと、散文、考えていること、活動のご報告など更新していきたいと思います。あらためまして今年もどうぞよろしくお願いします。

2016年1月1日金曜日

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます!

昨年もブログをお読み下さりありがとうございました。近頃は更新の頻度がその時々のスケジュール等によってまちまちになってしまうのが悩ましいですが、今年もその時々に感じた事、考えている事、出来事やお知らせなど、綴って参りたいと思います。どうか時々覗いて頂けましたら幸いです。

今年も皆様にとって素晴らしい一年となりますように!