2014年3月28日金曜日

嬉しい知らせ

まだ少々咳と鼻水が残りますが、随分と体力が回復してきました。自然治癒力というものは本当にありがたいものですね。ところで先日は少し嬉しい知らせが入りました。

コンサート・ツアー中のチェリストの友人からだったのですが、以前彼のデュオが委嘱してくれた新曲(先日ヒップホップミュージカルの音楽監督をしながら同時進行で書いていた、メルフェンな曲です)について、彼らが今各地でその曲を弾いてくれていて、お客さんにもなかなか好評だとのことでした。そして今週末にはラジオの収録があるので、曲を演奏してもいいかと確認の連絡をくれたのでした。

こういう知らせをもらうと、大変元気が出ます。

この曲は、チェリストが特に「この物語を発想の元にして曲を書いてみて」とお題をくれて、わくわくしながら書いたものです。

"The Light Princess"

という物語なのですが、Lightは「光」の方ではなく、なんと「軽い」の方のLightです。このお話がまた非常に素晴らしくて、曲を書き始める前にのめり込んでしまいました。

また次回の投稿でストーリーについてご紹介したいと思います。

2014年3月24日月曜日

散文:卒業


まだ幼い君たち、

まぶしいほどのその笑顔、
こぼれ出す無邪気な言葉の数々を、
一番誰に見せ、聞かせてあげたいと思う?

大人になった時の君たちだよ。

こんなにも軽やかに生きていた日々があったこと、
きっと伝えてあげよう。

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少し間があいてしまいました。ワークショップの発表などあり慌ただしくしていたのが一段落したところで、5年ぶりにインフルエンザに倒れてしまい、ようやく今週から復活して参りました。その間に、アメリカに来る間に非常勤講師として小学校で関わらせてもらった子ども達が卒業式を迎えました。当時一年生だった彼らがついに小学校を卒業・・・。現場ではじめて深く関わった子ども達だったので思い入れも強く、お祝いに電報を贈らせてもらいました。散文は、彼らと関わっていた当時にメモしていたものです。いつか再会できたら良いななどと思ったりしてしまいます。

2014年3月13日木曜日

無事のご報告

昨日ニューヨーク、マンハッタンのイーストハーレムで、爆発によってビルが倒壊する事故があったのですが、私は現場から離れたところにいて無事でした。心配して下さった皆さま、ありがとうございます。

事故のことは出先で領事館からの緊急連絡メールを受け取って知ったのですが、先日東日本大震災から3年を迎えて思いを馳せていたところ、また身近な場所で、予期せぬ出来事で人が亡くなってしまったという事態にショックを受けました。亡くなった方々のご冥福を祈るとともに、行方不明の方々が救助されることを願います。


震災、事件、事故、病気、トラブルなどの不幸は、自分の力でコントロールできないところで起こることが多いにもかかわらず、時に人生をかけて対応しなければならなかったり、命そのものを奪われてしまうということが今更ながら、理不尽に思えて仕方がないことがあります。

それでも、そういう時はいつもこの言葉を思い出します。「世の中には色んな不幸がある。あなたに起こった不幸と共にあなたは生きていかなければならないけれど、他の不幸は他の人が引き受けてくれているのよ。」マネス大でのピアノのグループ・レッスンで(以前こちらのブログにも書いたかもしれないのですが)、ある日自分に学習障害があるとわかって落ち込んでやってきた生徒に向けて、先生がかけた言葉でした。

大なり小なりみんな不幸を抱えていて、そしてたとえ直接の関わりはなくても、きっとどこかで自分のかわりに不幸を背負ってくれた誰かのおかげで今日も生かされている。そう思って、日々がんばりたいと思います。

2014年3月9日日曜日

散文:野菜選手権 - 玉ねぎ


玉ねぎは強い。

包丁で切ろうとすると、つるつるすべる。
切ったら切ったで、気化した成分で目が痛くなる。
そして涙でぼやけて手元があやしくなる。
もしもその手で目を擦ったらさらに大変。
あげくのはてには、その手がしばらく玉ねぎくさい。

ただでは食べられない、
玉ねぎはかなり強い。

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常々、よく食べる割に実は調理の時大変な野菜だなあとは思っていたのですが、先日みじん切りをしていて涙が止まらず、ついに散文にしてしまいました。

ところでアメリカでは今日からデイライト・セービング(またはサマー・タイム)のため、時計が一時間進みました。今日一日は一時間損してしまったような気分ですが、季節の移り変わりを知らせる出来事の1つに、ようやく春が近いのだと実感が湧いてきました。

2014年3月5日水曜日

4分33秒


先週末立て続けに友達の仕事の代行が入り、子どものコーラス、子どものミュージカルでの伴奏をする機会がありました。いずれも小学校低学年〜中学年の子ども達で、担当の先生方が子ども達を静かに課題に取り組ませるのに苦心しておられるのを見て、小学校で非常勤講師として過ごした日々を思い出しました。それと同時に頭に浮かんだのがジョン・ケージの『4分33秒』という曲でした。

これは1950年代初頭に偶然性の音楽を創始し活躍したアメリカ人作曲家、ジョン・ケージの代表作で、三楽章にわたるこの曲の"演奏中"、演奏者は1つも音を発さないという画期的な作品で、「無音」の音楽とも称される曲です。

教育大時代に初めてこの曲の存在を知ったとき、一体その作曲の意図はなんだろうと、とても衝撃を受けました。ケージによると

"The piece is not actually silent (there will never be silence until death comes which never comes); it is full of sound, but sounds which I did not think of beforehand, which I hear for the first time the same time others hear." (Quote from the letter from John Cage to Helen Wolff, Christian Wolff's mother.)

ということで、訳すとこんな感じになるかと思います。

「この曲は実のところ静寂ではなく(死が訪れるまで本当の静寂というものは訪れず、そのような死が訪れること自体があり得ない);沢山の音に溢れている。ただその音というのは私があらかじめ考えたものではなく、私自身もまた、他者がこの曲を聴く時まさに同じく初めて聴くのである。」(親交のあった作曲家クリスチャン・ウォルフの母親に宛てた手紙からの引用)

つまり、完全な無音はあり得ないとした上で、あえて音を発しない状態で大勢の人間が集まって耳を澄ました時に聴こえる全ての音がこの曲そのもの、ということのようです。

そこで思ったのですが、この曲を子どもの初等音楽教育の教材として取りあげることはできないだろうかと空想しました。鑑賞教材としてではなく、演奏教材としてです。

子ども達は音楽と言えば「音を出す事で作るもの」だと習慣的に捉えていると思うのですが、「静寂を作り出す事」もまた音楽なのだという概念を得たら、どうだろうかと思うのです。

小さな子どもたちが集まると、まるで鈴が鳴るように楽しいおしゃべりが広がります。そんな彼らは学校等の授業中等に「静かにしなさい!」と言われますが、どうすれば「静寂」を作り出せるかということを具体的に教えられることはあまりないように思います。そして誰もまったくしゃべらないという時間を3分以上全員で経験し、それを皆で耳を澄まして聴く事も稀なのではと思います。

先生も子どもも、「音を出すこと、出した音を聴く事」にのみ意識が向いているように感じます。

ケージが指摘したように、確かに生物の身体は生きている限り無意識に音を出し続けますが、「静寂」を作り出すことは、自らの意志で出す音を最大限コントロールすることであり、それは音をコントロールすることで奏でる「音楽」の一番シンプルな形態なのではないかと思います。(楽譜が読める必要も、楽器の奏法の習得も必要ないので)

そういう経験や積極的に作り出す「静寂」という概念の獲得を通して、理想的には彼らが「先生に注意されるから」ではなく、1つの授業を1つの曲と捉えて、音を出す場面だけでなく、静寂の役割も主体的に果たし皆が授業を通してその「演奏」に参加できるようになると良いなと思います。

現場の先生方で読んで下さっている方がおられたら無責任な空想をご披露して恐縮で、またすでにこのような試みがなされていたら研究不足でお恥ずかしい限りなのですが。。ただ先日の伴奏の経験で、静かに待っていられない子ども達と、それを大声で注意する先生という構図を見て、なんとかこれをポジティブに変えられないものだろうかと思い、そしてそこから発して音楽とは改めてなんなのだろうと考えるきっかけになりました。