2018年7月27日金曜日

Through the Sky for Piano



日本での連日の酷暑、お見舞い申し上げます。そして、そのタイミングでの台風12号の接近も心配です…。どうか皆さまお身体にお気をつけ下さい。

そんな最中に連日のお知らせになってしまい恐縮なのですが、もう一つピアノ曲のビデオをYoutubeにアップしましたのでご紹介させてください。

こちらはThrough the Sky「空を通して」という曲で、昨年委嘱で書かせてもらった曲です。亡き人の魂を讃えるような、偲ぶような曲をとのことだったので、親しい人と空を通して対話するイメージで書かせてもらいました。

小さな三楽章からなる曲で、それぞれの楽章のタイトルは、
I. Rain Soliloquy「雨の独白」
II. Angel’s Ladder「天使の梯子」
III. Into the Twilight「黄昏の中へ」
となっています。

I.「雨の独白」では、決して答えられることがないとわかっている問いを問い続ける、残された人の心の葛藤を雨の景色に寄せて描いています。

II.「天使の梯子」では、懐かしい人が天から「さあ顔を上げて」と語りかけます。

III.「黄昏の中へ」では、幻想の中での再会、そして再びの別れを描きます。

お聴き頂けたら幸いです。

2018年7月26日木曜日

In the Shade of an Acacia Tree for Piano



以前こちらでもViolinバージョンとViolaバージョンをご紹介させて頂いたのですが、今月ようやくIn the Shade of an Acaia Tree(「アカシアの木陰で」)のPianoバージョンも撮影してYoutubeにアップできたので、お知らせさせて頂きます。ご覧頂ければ幸いです。

もともとは弦楽器のソロの為に、お天気の良い午後に心地の良い木陰で、家族や親しい友人の為にゆったりとした気分で演奏してもらえたら、というイメージで書きました。

ピアノバージョンではハーモニーも大幅に加わるので少し発想を変えて、更に内省的なイメージで、中間部を加えて構成も少し大きくしました。曲を通して特にドラマチックなことが起こるわけではないのですが、言葉にならないそこはかとない気持ちを丁寧に歌い上げるような曲を目指しました。

ViolinとViolaバージョンの発表後からPianoバージョンの作曲にも段階的に取り組んでいたのですが、大事な友人の結婚式で弾かせて頂く機会があり、その時に現在の構成に落ち着いて、曲が完成しました。

「何か音楽を聴きたいけれど、どういう音楽が聴きたいのかわからないし、音楽に強く影響されるほど元気がない。」というときにも、この曲を弾くとなんとなくその間は心を楽にしていられる気がして、私自身時々弾きたくなります。

実は、そういう曲が欲しくてこの曲を書いたところもあるので、聴いて頂いた皆さんや、もしこれからこの曲を弾いて頂けるかもしれない皆さんにも(楽譜は近日発売予定です)、そういう風に感じて頂くことができたら望外の喜びです。

2018年7月23日月曜日

コンサートが無事終わりました


先日、無事にBroadway Celebrates New Musical Theatreのコンサートが終わりました。

会場となったFeinstein's / 54 Belowは、2012年にStudio 54の地下にオープンしたキャバレーです。トニー賞受賞者を含む著名なデザイナー達(装置、照明、設計、音響)によって設計されていて、劇場で舞台を見ているかのような臨場感(かつどの席からも舞台が8メートル以内!)でパフォーマンスを楽しむことができました。


このVenueでは毎晩最大3つのショーが上演されていて、今回のBroadway Celebrates New Musical Theatreはその3つ目、11:30pm開始というかなり遅い時間のショーとなりましたが、有難いことに134席のチケットは完売し、お客さん全員とPerformerが一体となって、Broadwayで新しい作品を生み出していくことの大切さとその興奮を共有するショーとなりました。


私たちの曲は、ブルーグラススタイルの、女性トリオによって歌われる曲で、普段Broadway Musicalで活躍するperformerの3人が爽快に力強く歌ってくれて、お客さんも多いに盛り上がってくれて、大変感慨深かったです。

実際の作品は今年の秋にかけて作曲の山場を迎えます。今回のコンサートで、その一部をperformerやお客さんとシェアできたことが励みになったので、ますます全力で取り組みたいと思っています。

2018年7月16日月曜日

考えた事:他者の痛みに対して何ができるか


猛暑お見舞い申し上げます。地震、豪雨からの復興の最中に更なる自然の脅威が重なり、本当に大変な状況だと思います。気を強く持ってがんばっておられる皆さま、被害の拡大を食い止めるため尽力している皆さま、どうぞお体にお気をつけ下さい。


先日久しぶりに会う友人(アメリカ人)と話していて近況の話となり、今日本が災害で大変なんだよと話すと、海外ではあまりニュースとして大きくは取り上げられておらず、知らなかったとのことでした。その上で、「そういう時に遠く離れているのは辛いだろうね。」と慮ってくれました。

確かに辛い。けれどその辛さというのは一体なんなんだろうと考えました。

まだ何も落ち着いていない最中に、客観的な視点でこのようなことを書くのをどうかと思ったのですが、同じように遠くにいて思っている皆さまに、もしも共感して頂けることがあればと思い、最近考えたことを記してみたいと思います。

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「他者の痛みに対して何ができるか」

痛みが自分のものである時は、選択の余地もなく、苦しみの中でなんとか状況を良くしようと奔走するものだと思う。それが思いがけず引いたひどい風邪であっても、突然引っ越さなければならなくなっての家探しであっても。弱気になっては涙を流し、人に助けてもらっては胸が一杯になりながら、いつしか一番辛い状況を脱していることに気がつく。

しかし、それが他者の痛みである時は難しい。その痛みをどれほど感じるか、自分で選べてしまうからだと思う。家族や友人など身近な人の痛みは強く感じる。外国の災害よりも母国の災害の方に強く関心を寄せてしまう。他者の痛みは知ろうとしなければ、自分の痛みにはならない。知れば知る程悲しみや痛みの総量が増える。そのくせ、その事に対して自分ができる親切には一貫性がない。心を寄せられる余裕のある時もあれば、ない時もある。寄付できる時間やエネルギー、財産の量もその時の状況による。本質的にはいつも人に対して親切でありたいと思いながら、いつも決して満足にはできない。

被災地に飛んで行ってボランティアとして災害復興を手伝いたい、まとまったお金を寄付して支援したい、オンラインで有用な情報をまとめて発信したい。そういう思いはあっても、現在の自分の生活を維持することを考えては結局そのどれにもトライすることができないまま、情報だけは取り入れ続け、次第に増え続ける悲しみと痛みに堪え兼ねてそれすらもシャットダウンしてしまう。その悪循環を繰り返してようやく気がついた。

他者の痛みに対して、決して満足には助けられない自分に折り合いをつけなくてはいけない。

自分にできることで一番効果的なことは何なのか。どこまでならできる・したいと思うのか。それを見極めてできることをする。決めるということが身勝手で保身のように思えても、どこかには線を引かなくてはいけない。他者の痛みを知った自分もまたある意味当事者であるという事実を受け入れて、自分の人生に対する責任を果たしながら、できることをして行きたいと思う。

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お読み下さりありがとうございました。心を寄せ続けて出来る事をしながら、自分の活動も精一杯やって参りたいと思います。

2018年7月10日火曜日

7月豪雨のお見舞い


平成30年7月豪雨で被害を受けられた皆さまにお見舞い申し上げます。大阪地震からまだ間もないというのに、更にこのような大きな災害が多くの人々の生活を奪った状況に胸がつぶれる思いです。今後の被害の拡大が少しでも抑えられるよう、尽力されている方々のことも思いながら、取り急ぎYahoo!基金の方から寄付させて頂きました。未だ危険にさらされている方々の安全が一刻も早く確保され、被害を受けられた皆さまの生活の復興が為されますよう願うばかりです。

2018年7月5日木曜日

Broadway Celebrates New Musical Theatre



現在作曲に取り組んでいるミュージカルの中からの一曲が、今月Feinstein’s / 54 Belowにて行われる、Broadway Celebrates New Musical Theatreという新作ミュージカルを特集したコンサートで取り上げてもらえることになりました。

100組を超える応募があったそうで、その中から12組選ばれた中に含まれてとても嬉しいです。にわかに準備で忙しくしていますが、また様子など報告させて頂きたいと思います。

2018年7月3日火曜日

地下鉄の風景(2)


電車に乗ってドア付近に立っていると、斜め向かいに座っていた個性的な眼鏡をかけた女の人とその友人らしき人が、その斜向いに座っていた、乳母車に乗せた赤ちゃんをあやす女の人に向かって何か声をかけていた。

お母さんらしきその女の人に対して、乳母車の方を指して何か注意しているようだったので、"何か落としたのかな、拾ってあげた方がいいかな?”と少し覗き込むと、お母さんからは見えない、乳母車の下の段に口の開いたバッグが無防備に置いてあった。

お母さんは「ありがとう!」と言って急いでバッグを手元に持ち直した。

"そういうことだったのか!”と、思わず眼鏡の女の人の方を見ると目が合ったので、"確かに!"という表情で頷くと、彼女も"でしょ?"という表情を返してくれた。

「それは良くないわよ。」

そのお母さんは、降りる時にもう一度眼鏡の女の人に向かって「ありがとう!」と声をかけ、眼鏡の女の人は「良い一日をね!」と返していた。

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地下鉄の話が続きますが、今日出会った風景で思わず書きたくなりました。

親切を目にしてほっとしたのと、自分まで少しコミュニケーションに関われたような気がして嬉しい出来事でした。

躊躇いも気負いもなくこういうやり取りをして、また何事もなかったようにそれぞれの日常に戻っていく、という様子はそういえば、ニューヨークの地下鉄では今までにもよく見たり経験した事があったなと思いました。

乗客同士が「公共の場は危険」「地下鉄は基本的に遅れる」等の状況を共有している故の連帯感なのかなとも思いますが、今回は特に眼鏡の女の人、お母さんらしき女の人、そして私がそれぞれ見た感じ違うエスニシティーだったので、お互い特に親しみを感じる対象でもない中で、そういう風に思いやり合えるというのは良いなあと思います。

人種のるつぼのニューヨークで、人々がニューヨーカーとして連帯感を感じられるのは、もしかするとある種街の不便さを通して共感できることにもあるのかもしれないと思いました。