2014年12月30日火曜日

散文:年末の想い


一年を振り返るとき、様々な想い出と共に「今年もまた一つ歳を取ってしまったなあ」と、少しの悲しみも感じます。

そしてまた、「いやいや、自分が思っていたほど大人になっていない事が不安なのだ!」という気持ちも主張します。

けれども同時に、自分の周りの人が歳を取っていく事もまた、同じように悲しいのだということに気がつきます。

実際の所、彼らは昔より素敵になって、昔よりも幸せそうになっていたりするのに、それでもなんだか少し悲しいのです。

おそらく、かつていた場所から離れていくことは、今いる場所の素晴らしさに関わらず、大なり小なり悲しいもので、そしていつかたどり着く場所に近づいていくことの不安は、大人になれば消えるというものでもないのでしょう。

それなら、しんしん悲しみを感じながら、不安だ不安だと言いながら、いつでも目一杯に生きてやろうではありませんか。いつかは心安らかに来た道を振り返れる時も来るかもしれません。

今年もお疲れさまでした。来年も良い年になりますように。

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久しぶりの散文です。いつもぼんやりと歳をとる事の切なさや、年齢に対する焦りの本質は何なのだろうと思っていたのですが、年末の片付けなどしながら、対象を自分から少し外して考えてみると「そういうことなのかな」と思えました。

一年の速さには驚きますが、それでも今年も無事に暮らせたこと、その中で成し遂げられたことなどに対してはありがたい気持ちで一杯です。色々な想い出がありますが、中でもこの夏の一時帰国の際に、大学時代に制作したミュージカル「銀河鉄道の夜」の10周年同窓会をできたことがとても嬉しかったです。私の原点を作ってくれた仲間と再会できて、それぞれの10年を感じて、前向きな力をもらいました。これからの10年も良い時間にしていきたいと思います。

今年もブログを読んで下さって本当にありがとうございました。
みなさまどうぞ良いお年をお迎えください!

2014年12月23日火曜日

植松努氏「思いは招く」


TEDxTalksに素晴らしいプレゼンテーションがあったのでシェアさせてもらいます。

植松電機の創設者の植松努さんの「思いは招く」の講演です。

20分ほどありますが、個人的には「とにかく皆一度は見るべき!」と思っている、素晴らしいお話です。特に夢を前にして進めなくなっている人に対しては、何が問題なのか整理して、背中を押してくれるような、そんなお話ではないかと思います。


私は特に、「自信をとりもどすには、新しいことに挑戦することだ。」というところに共感しました。できるかできないかわからないことに挑戦した結果「できた」という実感を積み重ねると、かといって見るからに「自信満々」になるわけではないのですが、次にできるかできないかわからないことに出会った時に「やってみようかな」という気持ちになりやすくなり、積み重ねるほどにどんどん色々なことに挑みやすくなる気がします。

植松さんの推進されている「だったらこうしてみたら」が、ぜひ流行って欲しいと願っています。


2014年12月21日日曜日

コミュニケーションの機能



昨日ユニオン・スクエアのグリーンマーケットを通りがかったのですが、中にはリースのお店も出ていました。もうあと数日でクリスマスなのだなあと思いながら、個人的にはなんとなく年末の気分の方が勝っている今日この頃です。

ここ数週間は、様々な人と会って話す機会がありました。それまでは楽譜を作ったりなどしてあまり人と会わずに過ごすことが多かったので、色々な刺激をもらってありがたかったです。

ところでその日々の中、コミュニケーションには色んな機能があるんだなと気づくところがありました。大きく分けると、「承認」、「気分の交換」、「情報交換」、「意見交換」、「カウンセリング」、の5つになるかなと思います。小論文のようにになってしまい恐縮ですが…、シェアさせてください。

まず、「承認」と「気分の交換」のコミュニケーションの端的な例は挨拶だなと思います。お互いの存在を認めて敬意や好意を表すと同時に、その時の気分やエネルギーも伝えあいます。

その次の「情報交換」は事務連絡や、軽い世間話などにあたり、これが日常のコミュニケーションの大部分を占めるのではないかと思います。

そして最後の「意見交換」と「カウンセリング」ですが、これは共通する経験や興味、近い価値観を持つ人同士がざっくばらんに話した際などに、様々な物事に対して情報だけでなく意見も交換したくなり、話が盛り上がるというような状況です。またその中でさりげなく悩みごとなども相談したりできれば、カウンセリングの効果もあると思います。

例と組み合わせて区切って考察してしまいましたが、実際の会話の中では相手との相性や関係によって、それらのコミュニケーションの機能が様々なバランスで存在しているのだと思います。食物の栄養素のように、どのコミュニケーションも大切だと思いますが、やはり「意見交換」や「カウンセリング」ができることは少なく、そのような会話が出来た時には本当に有り難いなあと満たされた思いがします。様々なご縁に想いを馳せながら、丁寧なコミュニケーションを心がけていきたいなと思います。

2014年12月12日金曜日

マグノリア・ベーカリー

昨日は友達と待ち合わせがあり、マグノリア・ベーカリーに行きました。


マグノリア・ベーカリーは1996年にNYで開店した焼き菓子屋さんなのですが、今はアメリカはもちろん世界中に支店があるそうです(東京にもあるのですね)。


マネス大の近くにもお店がありクラスメートには人気だったのですが、いつも込み合っているイメージもあり、なんとなく一度も来店したことがありませんでした。(おみやげにもらったりして食べたことはありました)


そんなわけで昨日が初めての来店だったのですが、入ってみると評判通りとても良い雰囲気で、お店の中にいるだけでうきうきとした気分になりました。(とくにこのサンタさんに!)


ニューヨークでの生活が長くなってきましたが、まだまだ「初めて」のことは多いなと思い、あらためて日々「知っている事」や「できること」を増やしていきたいと思いました。

2014年12月9日火曜日

Dear Kitten: Regarding The Dog(親愛なる子猫くん:犬に関して)


今日はちょっと、最近見つけてとても気に入ったネコビデオをシェアさせて下さい。

「ネコだいすきフリスキー」でおなじみの、フリスキーのコマーシャルシリーズなのですが、ネコが犬や人間に対して考えていそうなことを絶妙にとらえていて、ストーリー展開も素晴らしく、コマーシャルとしてもよくできていて、本当に名作だと思います。全編英語なのですが下に訳をつけさせていただきました。(拙訳のため、もし間違いがありましたらすみません!)どうぞお楽しみ下さい。


(訳)

親愛なる子猫くん

君も既に気づいていると思うが、
家の中に新しい、あれがいる。

それは犬と呼ばれるものだ。

私がなぜこのことを知っているかというと、
君が来る前にピーナッツという親友がいたからなのだ。

安らかに眠れ。

私はてっきりピーナッツはただ単に
とても醜い猫なのだと思っていた。

彼なりにチャーミングではあったが、
ひどい口臭だった。すさまじかった。

そういうわけなので子猫くん。

いくつか君が知っておくべきことを
伝えようと思う。


親愛なる子猫くん、

まず猫を想像したまえ。

そしてそこから独立性と、
清潔さと、聡明さを取り除くのだ。

そして残ったものが
基本的に犬というものだ。

例をあげよう。

昨日のことだが、私は犬が尻餅をついたまま、
前足を使ってにじり歩いているのを見た。

そして彼は私の方を見て、何と言ったと思う?

こう言ったんだ、 
「見てみて!僕二本足で歩いているよ。まるで人間たちがするみたいに!」

うーん…。
つまり、これだけで、我々の直面している問題の深刻さがわかるというものだろう。


親愛なる子猫くん、

君は私が時々その、まるで忍者に憑かれたかのようになっているのを
見た事があるかもしれない。

ほらあの、
「あちょ〜!」「こぉ〜!」
というあれだ。

慌てる必要はない。
私はただ、上下関係を示しているだけだ。

というのも…、おっと、それは違う。
君はあんまり上手じゃないな。

ううむ。今のはもっとひどかった。

それじゃまるで、背骨がくしゃみしたみたいじゃないか。

やれやれ。


親愛なる子猫くん、

君も「犬は人間の親友である」という言い回しを
聞いたことがあるかもしれない。

それは、正直なところ、
犬側の驚くべきマーケティングと言う他ない。

どうやってやってのけたのか見当もつかない。

ただ、新聞広告を出したりしていないのは確かだ。

君は彼らが新聞で何をするか見た事があるかね?

信じられないかもしれないが、それは読むのとは正反対だ、
これでわかってくれればいいんだが。

つまりその、うんちをするのだ。


親愛なる子猫くん、

犬というのは、
それを口に入れるべきかどうか、
口に入れることで判断するような生き物だ。

そのレベルの意思決定が延々と続く。

彼らは基本的に何でも食べる。
ちり紙がそのいい例だ。

彼らは人間がくれる、あの変な、茶色い、
乾燥した種みたいな固まりすら食べる。

だが腹を立てることはない。

犬に我々のドライフードを全部食べさせてやるのだ。

そしてもしそれが人間に見つかったら、
やつは牢屋に入れられる。

そうすれば、われわれはしっとりとした
あのおいしい缶詰を心置きなく楽しむことができるのだ。

これも作戦だ。


親愛なる子猫くん、

君も、犬が「パペー」と称されるのを
聞いたことがあるかもしれない。

それは何かしらフランス語で言う所の
「パペット」のことだと思うのだが、

そう考えれば人間達が彼に時々ひもをかけるのも納得がいく。

ものすごく下手な操り人形と言わざるを得ないが。

ただ、私が何を言いたいのかというと、
もしも人間達が君にもひもをかけようとしたら、

ともかく固まってじっと動かないことだ。

悪い事は言わない。
ショービジネスに入ってろくなことはないんだ。


親愛なる子猫くん、

確かに、犬というのは時としてかわいいものだ。

というのも、今日のことなのだが
彼が私のところに来て耳の中を嘗め始めた。

変な感じがしたかって?まあそうだ。

だがどちらかというと心地よかった。
見かけで判断しちゃあいけない。

彼らがハッピーになったときには、
正面にいることだ。

なぜならそんな時彼らのしっぽは
変な毛皮の霊剣みたいになって危ないのだ。

実際、それが赤ん坊の足をすくって
ひっくり返してしまったのを見た事がある。


親愛なる子猫くん、

我々の生活は
少々やりにくくなってしまった。

そして一人の時間を見つけるのは難しくなるだろう。

だが少なくとも、我々のお昼寝タイムに
人間があまり寂しい思いをしなくてすむ
ということだけは確かそうだ。

そしておそらく、それで十分だろう。

「あちょ〜!」

そうだ、わんちゃん。

ひれ伏すがいい。


サブタイトル参考 
http://www.amara.org/en/videos/TvvOE0i0aaUZ/en/821843/

2014年12月6日土曜日

コーヒーショップでの雑感



時々楽譜を作るお仕事をさせてもらうことがあるのですが、その間はかなり家に籠りきりになります。作業に区切りがつかず数日家を出ずにいたこともあり、そんな時は焦ってとりあえずお散歩に出かけたり、コーヒーショップに行って作業したりします。

コーヒーショップで人々の中に身を置くと、不思議とエネルギーをもらうような気がして、作業が一段と捗ります。ただ、一方では人々がコーヒーを片手に楽しそうに会話する姿などを横目に、時々真顔で内心人恋しくなったりもして(汗)、そんな時に店員さんが気さくに声をかけてくれたりすると、とても嬉しい気持ちになります。

それでふと思ったのですが、自分のよく行く場所の人々と仲良くなる、良い関係を築くというのは、自分の生活を快適なものにするためには大切なことかもしれないな、と感じました。

今年は図書館にも定期的に通っているのですが、最近は職員さんが私の顔を覚えてくれて、お互い笑顔で挨拶を交わせるようになったのがとても心地よいのです。

深い話はしなくても、顔を見て笑顔になれる相手を行く先々に見つけられたら、毎日はとても明るくなるのじゃないか、そしてそれもまた、自分を支えてくれる大切な人間関係なんじゃないかと、そんなことを思いました。