2015年8月26日水曜日

6周年


数日経ってから気がついたのですが、先日はアメリカに来て満6年の記念日でした。(ここ数年、後から気づくパターンです。。。もうざっくりと、8月が記念月ということにしてしまおうかと思い始めています。)

毎年この時期には、自分の今までとこれからについてあらためて思いを馳せるのですが、今年は社会の動きに対する思いも相まって、いろいろなことを考えています。政治に対する考えを書くのには躊躇があったのですが、今日は少しだけ書かせてください。

安保法案の動向が気になっています。

子供の頃、図書館で「はだしのゲン」を借りて何度も読み、小学校の修学旅行では広島に、高校では長崎に行きました。戦争は絶対に嫌だと思って育ちました。

そして同時に、「なぜ警察が戦争を止められないのか」ということを、とても不思議に思いました。個人のレベルでは犯罪であることが、国の規模になるとどういう論理でまかり通ってしまうのか。でもそれは、誰もが答えに窮してしまう問いのようで、聞くと大人を困らせてしまうようだと子供ながらに感じました。

そうして大人になって、アメリカに来て色々な国の人と出会いました。どの国の人であれ、人は個人として自分の考えと個性を持っていて、気が合えば友達になれ、信頼できれば仲間になれると感じました。ようやく、そうして個人が個人として生きられる時代になってきたのだとも思っていました。

自分の問題として考えたときに、誰かを傷つけたり、傷つけられたりしたいと思う人などいないと思います。皆、自分の人生を精一杯に生きたい。だからこそ、いろんな人がいる中でも譲り合い、皆がそれなりに幸せに生きていけるように、折り合って行こうというのが道理ではないかと思うのです。

国という大きな集まりになったときに、個人の存在を超えた大義が発生するとか、組織そのものが責任を取ってくれるということはないと思います。多くの人間が集まったとしても人間の意識は融和せず、どこまで行っても一つ一つ個人のままです。行動の責任は究極的にはやはり個人にあると思います。

今国を動かしている人たちにも、もう一度個人の意識に立ち返って、良心に尋ねて、本当に正しいと思うことをしてもらいたいと思います。

アメリカに機会をもらってここに住み、活動しているという状況で、そうであればこそあらためて日本への愛着も日本人であるという意識も実感する日々の中、現在の日本の状況と、アメリカとの関係性にやるせない思いでいっぱいです。

国会前に駆けつけることはできませんが、気持ちは個人として考え、声を上げている皆さんと共に。私は安保法案に反対です。