2015年11月16日月曜日

ポケットに5セント


少し音楽とは関係がないのですが、最近思っていることを少し書かせていただきます。

先日、いつも利用する地下鉄の駅の降り口から入った構内の片隅に、花束が置かれていました。そして壁には「ここに座っていたホームレスの女性が亡くなりました。」とその日の日付の入った張り紙がしてありました。駅構内にあるお店の人が、それらを手向けてくれた様子でした。

その日の目的地に向かいながら、いろいろなことを考えました。その人は、確かによくその場所に座っていたのです。でもお金をあげたことはありませんでした。元気そうな姿を見たこともあった気はしましたが、最近は俯いている姿を微かに覚えているのみです。

NYに来てから、街でも地下鉄でもホームレスの人をよく見かけ、そして小銭やお金を請われる場面に出会ってきました。その度にどうするべきなのか戸惑いながら、「恵むなんておこがましいのでは」「人助けするほど稼げてもいないのに」などの理由をつけて、ほとんどお金をあげたことはありませんでした。

たとえ彼女に少しの小銭をあげられていたとしても、実際のところ一食分のお金にもならなかったとは思います。ただ、そもそもそういうことではなかったのかなと思いました。もしも「誰にも省みられることがない」と感じたまま亡くなったのだったのだとしたら、悪いことをした、と心が痛みました。

社会の経済的格差が広がっている中、お金をたくさん持っている人に対して私自身「どうにかそれを社会に還元してくれないか」と感じる時があります。しかし、そう思うのであればこそ、自分も自分よりしんどい人をサポートをする気持ちを持たないと、フェアではないのではとも思いました。

そのように気持ちが決まったので、目的地につくと財布を開けて5セント硬貨を集めてポケットに入れました。これから街でホームレスの人に出会ったら、一人につき1枚ずつこの5セントを寄付していこう。と決めました。

そう思って生活してみると、前よりもホームレスの人の姿に目が止まるようになりました。実際は、人混みの中でタイミングが合わなかったり、少し危険を感じた場合などには通りすぎたりして、無理のない範囲での寄付活動ですが、俯いている人の差し出している紙カップに5セントを入れると、硬貨のぶつかるチャリーンという音に顔を上げて、少し意外そうな顔をしながら「ありがとう」と言ってくれることが多いです。

根本的な解決にはならないのはわかっていますし、きれいごとの自己満足ではあるのですが(しかもたったの5セント…)、同じ街に住むものとして「苦しいから助けてください」と公に表明している人に対して、できる範囲でサポートを示すことは、そんなに悪い事でもないのではないか、などと思いしばらくはこの活動を続けてみようと思っています。

たくさんの命が簡単に奪われてしまう、たくさんの命の関わる事柄が簡単に決められてしまう、そのような絶望的な出来事の多い昨今ですが、一つの命を全うすることは本来かくも大変で、それでいて丁寧に生かされた命は可能性に溢れている、ということを改めて思うこの頃です。