2018年7月3日火曜日

地下鉄の風景(2)


電車に乗ってドア付近に立っていると、斜め向かいに座っていた個性的な眼鏡をかけた女の人とその友人らしき人が、その斜向いに座っていた、乳母車に乗せた赤ちゃんをあやす女の人に向かって何か声をかけていた。

お母さんらしきその女の人に対して、乳母車の方を指して何か注意しているようだったので、"何か落としたのかな、拾ってあげた方がいいかな?”と少し覗き込むと、お母さんからは見えない、乳母車の下の段に口の開いたバッグが無防備に置いてあった。

お母さんは「ありがとう!」と言って急いでバッグを手元に持ち直した。

"そういうことだったのか!”と、思わず眼鏡の女の人の方を見ると目が合ったので、"確かに!"という表情で頷くと、彼女も"でしょ?"という表情を返してくれた。

「それは良くないわよ。」

そのお母さんは、降りる時にもう一度眼鏡の女の人に向かって「ありがとう!」と声をかけ、眼鏡の女の人は「良い一日をね!」と返していた。

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地下鉄の話が続きますが、今日出会った風景で思わず書きたくなりました。

親切を目にしてほっとしたのと、自分まで少しコミュニケーションに関われたような気がして嬉しい出来事でした。

躊躇いも気負いもなくこういうやり取りをして、また何事もなかったようにそれぞれの日常に戻っていく、という様子はそういえば、ニューヨークの地下鉄では今までにもよく見たり経験した事があったなと思いました。

乗客同士が「公共の場は危険」「地下鉄は基本的に遅れる」等の状況を共有している故の連帯感なのかなとも思いますが、今回は特に眼鏡の女の人、お母さんらしき女の人、そして私がそれぞれ見た感じ違うエスニシティーだったので、お互い特に親しみを感じる対象でもない中で、そういう風に思いやり合えるというのは良いなあと思います。

人種のるつぼのニューヨークで、人々がニューヨーカーとして連帯感を感じられるのは、もしかするとある種街の不便さを通して共感できることにもあるのかもしれないと思いました。