2018年7月16日月曜日

考えた事:他者の痛みに対して何ができるか


猛暑お見舞い申し上げます。地震、豪雨からの復興の最中に更なる自然の脅威が重なり、本当に大変な状況だと思います。気を強く持ってがんばっておられる皆さま、被害の拡大を食い止めるため尽力している皆さま、どうぞお体にお気をつけ下さい。


先日久しぶりに会う友人(アメリカ人)と話していて近況の話となり、今日本が災害で大変なんだよと話すと、海外ではあまりニュースとして大きくは取り上げられておらず、知らなかったとのことでした。その上で、「そういう時に遠く離れているのは辛いだろうね。」と慮ってくれました。

確かに辛い。けれどその辛さというのは一体なんなんだろうと考えました。

まだ何も落ち着いていない最中に、客観的な視点でこのようなことを書くのをどうかと思ったのですが、同じように遠くにいて思っている皆さまに、もしも共感して頂けることがあればと思い、最近考えたことを記してみたいと思います。

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「他者の痛みに対して何ができるか」

痛みが自分のものである時は、選択の余地もなく、苦しみの中でなんとか状況を良くしようと奔走するものだと思う。それが思いがけず引いたひどい風邪であっても、突然引っ越さなければならなくなっての家探しであっても。弱気になっては涙を流し、人に助けてもらっては胸が一杯になりながら、いつしか一番辛い状況を脱していることに気がつく。

しかし、それが他者の痛みである時は難しい。その痛みをどれほど感じるか、自分で選べてしまうからだと思う。家族や友人など身近な人の痛みは強く感じる。外国の災害よりも母国の災害の方に強く関心を寄せてしまう。他者の痛みは知ろうとしなければ、自分の痛みにはならない。知れば知る程悲しみや痛みの総量が増える。そのくせ、その事に対して自分ができる親切には一貫性がない。心を寄せられる余裕のある時もあれば、ない時もある。寄付できる時間やエネルギー、財産の量もその時の状況による。本質的にはいつも人に対して親切でありたいと思いながら、いつも決して満足にはできない。

被災地に飛んで行ってボランティアとして災害復興を手伝いたい、まとまったお金を寄付して支援したい、オンラインで有用な情報をまとめて発信したい。そういう思いはあっても、現在の自分の生活を維持することを考えては結局そのどれにもトライすることができないまま、情報だけは取り入れ続け、次第に増え続ける悲しみと痛みに堪え兼ねてそれすらもシャットダウンしてしまう。その悪循環を繰り返してようやく気がついた。

他者の痛みに対して、決して満足には助けられない自分に折り合いをつけなくてはいけない。

自分にできることで一番効果的なことは何なのか。どこまでならできる・したいと思うのか。それを見極めてできることをする。決めるということが身勝手で保身のように思えても、どこかには線を引かなくてはいけない。他者の痛みを知った自分もまたある意味当事者であるという事実を受け入れて、自分の人生に対する責任を果たしながら、できることをして行きたいと思う。

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お読み下さりありがとうございました。心を寄せ続けて出来る事をしながら、自分の活動も精一杯やって参りたいと思います。