2014年4月24日木曜日

言語について


BMI Musical Theatre Writing Workshopの今年度のクラスも残すところ約一ヶ月となり、出される課題の規模も大きくなってきました。今は戯曲「セールスマンの死」のラストシーンをミュージカル化する課題に取り組んでいて、これまでは一曲ずつの課題だったところ、今回初めて「シーン」を構成することにチャレンジしています。

その過程で、作詞家とも今までより込み入った概念をやり取りする機会が増え、そして音楽を書く対象としても英語に向かい合う時間が増えてきました。英語に関しては、会話の中で瞬時に的確に反応することには未だに文法と語彙の面からも残念ながら不自由を感じますし、歌詞そのものが持つリズムについては作詞家に音読して助けてもらっています。しかしそれでいて、「英語」という言語でこそ表現できるニュアンスや、伝え方の効率の良さ、韻を踏める楽しさ、などにも益々魅かれるようになってきました。

そこで考えたのですが、他言語の習得の大変さを差し引いて考えると、もしかすると自分の表したい事柄に対して、母国語が必ずしも最も適したツールとは限らないのではないか、という思いがけない考えが頭をよぎりました。もちろん母国語は間違いなく一番感覚的に使えるツールで、自分の存在と決して切り離せないものですが、言語を客観的に比べてみた場合、表せる概念の方向性が様々であることは想像に難くないと思いました。

しかしそこから更に拡げて考えると、むしろ言語や会話という形態によって端的に表せることそのものに限りがあるのではないかと思いました。特に「自分はどう考え、何を美しいと思い、何を信じているか。」というような本質的なことは、ある人は絵を書く事で、ある人はビジネスのやり取りで、ある人は作物を育てる事で、またある人は国を動かす事で、黙々と、または時間の流れの中でじっくりと語っているのではないかと思いました。

まとまらずに恐縮ですが、会話や言葉でのコミュニケーションが不得手だと感じるからこそ、もっと多くを音楽で語れるようになりたいと思いました。