2009年10月16日金曜日

ピアノクラス

今日は前に休みだった分の振替で、ピアノクラスがありました。

普段は前半はそれぞれが練習している曲を聴いてもらってディスカッションしながら指導を受け、後半はみんなでキーボードハーモニー、というグループレッスンです。

しかし、今日は振替だったので個人で見てもらい(以前ティーパーティーに招待して頂いた先生です)、 バッハのプレリュードを指導してもらって感銘を受けました。

1ページほどの曲で、装飾音以外には音を弾くだけならそれほど苦労を感じなかったのですが、自分で弾いていてそれ以上のことが考えられずにいました。

「音は全部あっているから、次は音楽を弾いてみなさい。」
「それは音楽家の弾き方ではない。作曲家の弾き方ではないわ。」
「あなた個人が感じるままに弾いてみなさい。」

と先生の言われることをなんとかピアノで弾こうとするのですが、「感じるままに」「音楽的に」弾くということの具体的なイメージが出来ませんでした。

ところが、先生の指摘でよく楽譜を見てみると、その箇所は和音が分散されていたのですが最後の音は「導音」でした。

つまり、その箇所は小節自体がドミナントになっていて、次の小節でトニックにもどるという音楽にとって重要な「解決」の場面であったので、演奏においても自ずからテンポであったり音の重みであったり、聴く人にとっても「解決」として感じられるように音が扱われるべきだと、それが音楽として感じるということだ、と教わりました。

そのようにその先も見ていくと、楽譜のどの小節にも音にも音楽的な根拠があり、無駄な所がないとわかりました。楽譜(music)には本当に音楽が詰まっているんだなと思いました。

音楽を学んできた中で、当然知っているべきだったことを理解しないままに今ここにいるのが恥ずかしく思う面もありますが、また同時に今までぼんやりと「音楽とは何か」と手立てもなく考えていたことの仕組みを知ることができそうだと思うと嬉しくもあります。

ともかく、勉強しなければと思います。